試されるべき霊感の表現 | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

426日 今日はヨハネ112以降を扱います。

 

「しかし、彼を迎えた者、そうした者たちすべてに対しては、神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが、彼の名に信仰を働かせていたからである」。

前回の記事の内容から考えると、「彼の名に信仰を働かせる」というのは、ただ「イエスの名を信じる」という表面上のものではないことが分かります。そのような人たちには「贖い」の意味が理解できていないからでした。それは理論上でつじつまを合わせることができるというものでもありません。これは多くの物見の塔信者たちが陥っている状態だからです。むしろそれは、イエスの行ないに倣うことができる、それ以前にイエスの内面に共感できるということです。「彼の名」とは、ヨハネ第一42に「イエスが肉体で来られたことを告白する霊感の表現」と記されているものです。

 

ヨハネ第一41にはこうもあります。「愛する者たちよ、霊感の表現すべてを信じてはなりません。むしろ、その霊感の表現を試して、それが神から出ているかどうかを見きわめなさい。多くの偽預言者が世に出たからです」。その「偽預言者」はどこに出るのですか? 「世に出た」とあります。この「世」こそ、ヨハネ11011で扱ったものであり、イエスが世と見なしておられた自称神の民、物見の塔組織が含まれます。そうです、組織の排斥者がいる一般の世ではありません。つまり「偽預言者」は物見の塔組織の中に出るのであり、「霊感の表現」を用いることが分かります。

使徒ヨハネがこの書を書いた時、すでに世界中にはクリスチャン会衆が浸透していました。しかし、抑制力となる使徒たちがほとんどいなくなり、偽使徒たちが蔓延り、彼らが多くの地域を牛耳っていたでしょう。それらはもはや「世」だったのです。

 

「霊感の表現すべてを信じてはなりません」という言葉から分るのは、物見の塔組織が提唱する「霊感」の絶対性が嘘であるということです。そもそも力ある人が、「これは霊感によるものです」と言ったとしても、どこにそんな証拠があるのでしょう? 彼らは霊感による聖書の絶対性を過度に強調することによって、信者が「霊感」という言葉に過敏に反応するように教育し、「組織や統治体」も霊感によるものであることを印象付けることによって信者を恐れさせ、その「出版物」も聖書と同類の霊感によるものであるかのように装い、こうして「その表現を試す」ことを禁じています。しかし最後の使徒は、「その霊感の表現を試して、それが神から出ているかどうかを見きわめなさい」と真のクリスチャンに命令しているのです。もちろんこれには聖書も含まれているでしょう。本物なら試されてもびくともしないからです。逆に試すことを禁じているのはやましい部分があるからです。

 

「彼らは、血から、肉的な意志から、また人の意志から生まれたのではなく、神から生まれたのである」。

人の内に神の何かが宿るとすれば、それは心の領域だけでしょう。それ以外の部分は血も肉もみな地上に属しており、動物となんら変わりありません。では、「人の意志」とは何でしょう? それはイエスがマタイ1623で「人間の考え」として退けた、自己愛、家族愛から出ている、この世では非とされない考え方です。残念ながらその中には、「自分の栄光のために利他的に振る舞う」という考えも含まれています。コリント第一133を見れば分かる通り、ある人は自分の栄光のために命さえ投げだすこともできます。つまり、人は自分のためなら表面上あらゆることが可能だということを想定しておかねばなりません。それゆえ多くの人は欺かれるかもしれません。このような事情のためにも、「霊感の表現を試す」ことは重要なのです。

 

「地的な実」と「神から出ている実」はどのように見分けられるでしょう? 恫喝、威圧などのように何らかの力や権力によってだれかに圧力をかけ、従わなければ何らかの損害を被る(永遠の滅びも含む)ことを連想させ、その結果その者に何かをさせるよう誘導したのであれば、それは地的なものでしょう。また、何らかの見返り(永遠の命も含む)を期待させて買収まがいのことをするのも同様です。いずれも人の利己心に訴えていますが、これらは「悪霊の霊感の表現」でしょう。支配側も支配される側も、こうしたものが動機となってクリスチャンとなっているかぎり、「神の子供」にはなれません。神の家族にはなれないのです。それは人ではなく動物に属するため、限られた寿命を終えて塵に帰るのです。

 

一方、「神から出ている実」は、聖書中のある考えに共感して、犠牲を払ってでもそれに追随したいと自発的に起こるものです。ところが、聖書に触れたことがないのに、同じようなことができる人々が起こることがあります。これはなぜでしょう? それは神の家族となる素質を生まれながらに多く持った人が、聖書に触れることなく悟りを開き、それに共感する人もいたからでしょう。そのような人々も時が来ればすべてのことを知り、神の家族へと合流するでしょう(ローマ21416)。イエスもこのような人々に対しては、「あなた方に敵していない者は、あなた方に味方しているのです」と言われました(ルカ950)。物見の塔組織のように「他者を一切認めない」という考えは、神のお考えではありません。これも「悪霊の霊感の表現」です。