またしても何者か(おそらく物見の塔のハッカー部隊)が私のネット用パソコン内に侵入してプログラムをいじったらしく、USBメモリーが、差し込んでも起動しません。それで、手打ちでネット用パソコンのワードに打ち込んだ後、それをコピーしてブログに移しました。そのため通常より少々更新が遅れてしまいました。申し訳ございません。
8月17日 今日はルカ20:39以降を扱います。
イエスがサドカイ人たちの難問に見事に答えたため、書士の幾人かがそれに答えてこう言います。「師よ、よくぞ言われました」。
おそらく彼らは、この28~33節の質問にうまく答えられずに、長い間自分を情けなく思っていたのでしょう。神の存在やその力の証拠は明らかなのに、目に見えないため、不信仰な者たちに悪く言われるままを耐えているのはもどかしいものです。しかし世間擦れした信仰ではそれ以上の進歩は望めません。幼子のように微塵も疑わない心に聖霊が働き奇跡を生み出すのです。
敵対者たちは、想像もしていなかったど真ん中の答えを次から次へと連発してくるため、もはやイエスに何一つ質問する勇気もありません。
そこで今度はイエスの側から質問を投げかけますが、人々が抱いている間違ったキリストのイメージに対して、その矛盾を聖書の記述から問われます。「人々が、キリストはダビデの子だと言うのはどうしてですか。ダビデ自身が詩編の中で、『エホバが私の主に言われた、私があなたの敵をあなたの足台として据えるまで、私の右に座していなさい』と言っています。それゆえ、ダビデは彼を『主』と呼んでいるのです。それで、どうして彼の子でしょうか」。
ユダヤ人にとって、偉大な先人より後に生まれてくれば、みな「○○の子」となり、格下となりますが、彼らはイエスの本当の出生を知りません。また、詳しく話したとしても信じないでしょう。信仰のない彼らにはキリストが理解できないのです。
民に教える人々がそれを理解できないのであれば、どうして民がそれを理解できるでしょうか? それでイエスはさらにこう言われます。「書士たちに気を付けなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることを望み、市の立つ広場でのあいさつと、会堂の正面の座席、そして晩さんでは特に目立つ場所を好みます。彼らは、やもめたちの家を食い荒らし、見せかけのために長い祈りをする者たちです。こうした者たちはより重い裁きを受けるでしょう」。
一人ひとりの書士たちが、元々こんな性格だったわけではないでしょう。彼らを育てる悪い空気、腐敗した水、そして特有の土壌がずっと存在してきたのです。それらは瞬く間に伝染し、伝統となって代々受け継がれてゆきます(テモテ第二2:16,17)。
物見の塔組織もまだ国際聖書研究者集団だったころは、前途洋々たるもので、限りない可能性を秘めていたことでしょう。しかし、やがて何かが狂い始めます。彼らを狂わせたものは何だったのでしょう?
それは金と権力の持つ魔力にほかなりません(テモテ第一6:9,10)。彼らはイエスが注意するよう言われたパン種の危険を甘く見ていたのです(ルカ16:13~15)。
この世的な組織宗教システムや宗教法人を立ち上げ、全信者から目的もない寄付を無制限に吸い上げ、上層部で一括貯蓄管理することは、一世紀のクリスチャン会衆は行っていませんでした。これは大きな落とし穴です。
「イエス一行の金箱」「使徒たちの揺らん期における全財産没収と分配」「エルサレム会衆のための募金」と、似たような事例はありますが、それらは部分的に似ているだけで、よくよく吟味してみると、物見の塔組織が行っている徴税的寄付集めと同じものではありません。信者たちは「世界的な業」というきれいな名称によって欺かれ、忖度させられているのです。その巨額のマネーが、仲間の心を徐々に曇らせることを知るべきでした。
確かに彼らは、寄付金のほんのごく一部を使って巨大な建築物を建てたり、世の人も持っていない巨大な印刷機を買って自慢していますが、これ自体が西暦一世紀のクリスチャン会衆の伝統とは全く違う伝統を生み出しています。そもそも毎年発行される膨大な数の印刷物はクリスチャンに必要でしょうか? しかもその中にはパン種が混じっています。今日ではすべての人が個人の聖書を容易に持てるのですから、そこに書かれている内容を正確に理解していれば、それ以外の出版物など必要ありません。その情報を分かち合うために集会があるのです(ヘブライ10:24,25)。
誰がどう見ても、この物見の塔のやり方は、一世紀のクリスチャンとは違います。それはむしろ世のやり方に似ていないでしょうか? 彼らはユダヤ教時代に逆戻りしています(ガラテア2:4)。
「イエス一行の金箱」は、世俗の仕事による収入が無い彼ら家族の生活を賄う財布であり、あるいは、彼らが日々出会う貧しく困窮した人々に施しをするための基金でもありました。
また、「使徒たちの揺らん期における全財産没収と分配」は、「イエス一行の金箱」を拡大したものに過ぎず、その内訳の大部分は彼らの食費として消えてゆきました。やがては蓄えも底をつくでしょうから、その頃までには、人々は各自の地に散り、自活したり、神の側にいる近間の援助者によってそれぞれの必要は賄われるように安定していったでしょう。誰も大金をいたずらに貯蓄したりせず、むしろそれをもくろんだアナニヤとサッピラは滅ぼされたのです。
クリスチャンが世界中から寄付を募る指令を出したのは、飢饉によってその土地の仲間が死にかけた期間だけであり、永続的指示ではありませんでした。
その集め方も、いつ起きるかも分からない「時と予見しえない出来事」のため、永続的徴税のようにして指導部が集め、無制限に蓄えるのではなく、有事に知らせがあり、個人が自宅に、都合のつくところに応じて蓄えていたものを、定めの日に回収し、現地に送り届けるという緊急時対応システムが取られていました(コリント第一16:1~3)。これによって信者たちは、無駄に寄付金を集められることなく、それぞれが自分の業に没頭できました。したがって、明らかに物見の塔組織はクリスチャン会衆などでなく、この世の組織宗教の一つに過ぎないことが分かります。
こうした世的な寄付システムにはパン種が含まれていることを、指導者たちは気づかなかったのでしょうか? しかも彼らは、ユダヤ教時代の出来事、「貧しいやもめの小さな硬貨の寄付」の聖句を用いて欺き、貧しい信者の寄付心を煽っていますが、本当は、逆に施してあげなければならないはずです。
おそらく彼らは、莫大な寄付金に囲まれ、実際にはありもしない絶対権力にも囲まれ、日々増え続ける言いなりの信者に囲まれ、神のように崇められているうちに、それらがあまりにも心地よくなり、手放せなくなってしまったのでしょう。彼らは悪魔の誘惑に堕ちたのです。