5月4日 今日はルカ18:9以降を扱います。
次にイエスは、二人の人が祈りをする様子を例えに用いて、祈りで重要なポイントを説明されます。一人はパリサイ人であり、自分は義にかなっていると自負しており、それと比較すると罪人や他の一部の人々は劣っていると本気で考えているようです。彼は立って心の中でこう祈っています。
「神よ、私は、自分がほかの人々、ゆすり取る者、不義な者、姦淫をする者などのようではなく、またこの収税人のようですらないことを感謝します。私は週に二回断食をし、自分が得るすべての物の十分の一を納めています」。
彼は心の中で祈っているわけですから、傍から見れば確かに義人に見えるかもしれません。律法の中で目立って罪とされることを行なっておらず、律法で要求されている税はきっちり納め、要求されているわけではない断食でさえ他の人より多く行って敬虔さを示しています。彼のどこに問題があるのでしょう?
それでは彼と対比されている収税人の祈りも見てみましょう。彼は離れたところに立って、目を天のほうに上げようともせず、胸をたたきながらこう言います。「神よ、罪人の私に慈悲をお示しください」。
彼はこれを心の中で言ったのではありません。声に出して言いました。まさに魂の叫びだったのでしょう。収税人であること自体が罪ではありませんので、彼がどんな罪を実際に犯したかについてまったく触れられていないことにも注目しなければなりません。それは彼自身が犯した単純な罪ではなく、同僚の収税人が犯している罪と複雑な絡みが関係していたからでしょう。いえ、そのような者をさえ仲間と見なしていることにも注目するべきです。
もちろん、簡単に考えれば自分自身の罪が関係する場合の方が自然かもしれません。「律法を守りたい」という心とは裏腹に肉体が伴わない生き方は、本人が一番つらいでしょう。自分の力ではどうにもできない時にこそ祈りや神の助けが有効なのです。そのゆえに感謝の気持ちが発生します。
しかし人にはそれぞれに器の大きさというものがあります。自分のことで精いっぱいの人もいれば、みんなのことを常に考えている者もいます。後者は他人の罪も自分の一部と見なします。預言者ダニエルが神の目に貴重だったのは、まさに後者の特質を持っていたからでした。彼は自分自身では罪を犯さないよう細心の注意を払っていましたが、自分の国民が犯した罪に苦しんでいました。彼はこの罪の許しを神に請い願ったのです。
しかも彼は当時のだれよりも知識を持っていましたが、「神は許してくださる方」だからといって、それを当たり前のことだとは思っていませんでした。他人の善意を当たり前と見なしている者は、外面上はへりくだっているように見えても、どこかでボロが出てしまうものです。しかしダニエルは生活上のどこをつついてもボロが出ませんでした。それは一般人には気づかないほどの小さな罪に関してまで、自分の中で重大な罪と認めていたからでしょう。
ウサギとカメの競争のように、能力のある者はその力の上にあぐらをかいて怠けていてはいけないのです。これは聖書ですから、だれにでも解かりやすい教訓も含んでいますが、能力のある者がさらに高みを目指すための教訓も含まれているはずです。が、しかし、それは注意深く秘められています。自分にとってさらに重いかせとなる掟を自ら探し、ひっぱり出してこなければ、それ以上の霊的進歩は見込めません。能力のある者はそこまでして初めて、他の人々と肩を並べることができるのです。
「親切なサマリア人の例え話」からも分る通り、理想とされるその親切さは、一般人から見れば異常とも思えるものです。多くの人々は「そこまでしなくてはならないのか」とため息が出ることでしょう。だれがそこまでするでしょうか? まず能力を与えられた者にそれが要求されているのです。瀕死の同国民を無視して去って行った人々のように、見てみぬふりをすることは罪なのです。一方のサマリア人は、敵対する国民に属していながら瀕死の人を出来る限り手厚く保護しましたが、もし、こうした対比が聖書に記されていなかったら、そこまで要求されていないことになります。
同様に、13節にある収税人の、「離れたところに立って」「目を天のほうに上げようともせず」「胸をたたきながら」という様子から、彼が神に心から感謝できる人であることが見てとれます。感謝は真の許しと共にあるからです。
そしてイエスはこう言われます。「あなた方に言いますが、この人は、先の人より義にかなった者であることを示して家に帰ってゆきました」。
(新世界訳のこの部分の訳は他の聖書とは意味合いがかなり違っています。他の聖書はどれも明確に、収税人を「義」とし、パリサイ人を「否」としていますが、新世界訳では「パリサイ人も義だが収税人はもっと義だ」と取れるような訳となっています。これは明らかに誤訳でしょう。現代のパリサイ人である物見の塔組織に自分たちを擁護したいという力が働いていたのかもしれません)。
もしこの者が、「どうせ神に許されるのだから」といって、故意に罪を行ない、その後わざとらしく神に許しを願っているとしたら、それは許されるはずはありませんし、彼が「義にかなった者」であるはずもないでしょう。ですから彼は、自分の能力範囲の限界で戦っており、踏み外してしまった点について許しを願っていたのです。そして「それは許される」という知識のゆえに、安心して「家に帰ってゆきました」。そして彼は日々感謝の心でいっぱいなのです。
ところがどうでしょう。11節の最後でパリサイ人は神に感謝していますが、これは何の感謝でしょうか? 自分が恵まれた環境に生まれ、生まれ持った能力や、それを用いた努力によって成し遂げた自分のための業について自慢しているに過ぎません。その反面、恵まれない環境に生まれ、社会の底辺を這いずり回るしかない哀れな人々をさげすみ、裁いています。
それどころか、こうした自分の精神に神が共感してくれている、「あなたはそうすべきです」と言わんばかりに、神に圧力をさえかけているのです。いったいこれのどこが神への祈りなのでしょうか? 神が最も共感するのは、邪悪な者を滅びの道から救い出すため、自分の命さえ犠牲にして道を突き進む人です。
最後にイエスは、「自分を高める者はみな辱められますが、自分を低くする者は高められるのです」と言われます。自分を高める者は、「あとで神によって辱められる」という知識を持っていたとしてもそうせずにはいられません。一方、自分を低くする者は、後で神によって自分が高められることを知っているので、今、人によって高められたいとは思いません。
目に見える世界、そこにいる人の目を気にしている者の将来は暗く、突然終わりが来ます。しかし目に見えない世界、そこにおられる神の目を気にしている者の将来は永久に明るいのです。