6月23日 今日はルカ11:31以降を扱います。 イエスはご自分の死と復活が、
邪悪な世代のユダヤ人に対して悔い改めるための最後の「しるし」となることを告
げた後、ソロモンの時代の「南の女王」も引き合いに出されます。「ニネベ人」も「南
の女王」も共に神からの「しるし」をその僕を通して受け入れました。ところが史上
最高位の神からの使いが来ているにもかかわらず、ユダヤ人はそれを受け入れ
ようとはしません。それゆえイエスはこう言われます。「南の女王は裁きの際にこ
の世代の人々と共によみがえらされ、この世代の人々を罪に定めるでしょう。彼女
はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たのですが、見よ、ソロモン以上の
ものがここにいるのです。ニネベの人々は裁きの際にこの世代と共に立ち、この
世代を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたから
です。しかし、見よ、ヨナ以上のものがここにいるのです」。
残虐さでその名を世界中にとどろかせたニネベの人々はさておき、列王第一10:1
~13に登場する「南の女王」が何か悪いことでその名を知られたことは聖書中に
記されておりません。むしろ彼女は神の知恵に興味がありました。その1節には、
「さて、シェバの女王はエホバのみ名に関連してソロモンのうわさを聞いていた。そ
れで彼女は難問で彼を試そうとしてやって来た」とあります。それは彼女自身も相
当な知恵を身に着けていたことを表わしています。誇り高い知恵者の中には自分
以上のものをかたくなに認めようとしない人もいますが、彼女はそうではありませ
んでした。さらに高度な知恵、神からの知恵を渇望していたのです。そして彼女の
行動は、今日の知識人たちに対してもへりくだってそうするよう無言のうちに語り
かけています。ですからイエスは、重大な罪人であるかどうかに関わらず、神から
の使者に敬意を払って従順になったこの二人の異なるタイプの異邦人を引き合い
に出すことによって、神のキリストさえ受け入れないイエスの時代のユダヤ人が、
どれほど神に不敬な態度を取っているのかを自覚させようとされたのです。
人には二つの物事を比較して分析し、その良し悪しに関して的確な判断を下す能
力が備わっています。しかしその能力も私利私欲という利害関係が絡むと歪んで
くるものです。先ごろ世間をにぎわした東京都知事の政治資金問題はどうでしょ
う。極めて優秀な能力を持つ人間も強大な権力を得ると、いかに視力が鈍り心が
歪んでしまいやすいのかをよく表わしていました。自分が過去に鋭い論理で愚か
な政治家たちの堕落ぶりを糾弾していたその同じ言葉で、今度は自身が容易く切
り捨てられてしまったのです。同様に、極めて神からの恵みに富んだ立場にありな
がらキリストを退けたイエスの時代のユダヤ人たちは、神から直接恵みのなかっ
た古代の異邦人が取った立派な行動と比較されることによって、事実上彼らに裁
かれたも同然の立場に立たされます。一度大失敗を犯した人が、「もう一度私に
チャンスを与えてください」と請い求める場合、それは「心からの悔い改め」を意味
しているのか、それとも「今度こそあのようなへまはしない(つまり、見つからないよ
うにうまくやってやる)」という意味なのかによって、その人の本来の人格が明らか
になるでしょう。
それでイエスも33節から「ともしび」を例えに用いて、その本来の役割とそれが置
かれているべき場所の整合性へと話を移されます。五体満足な健常者の場合、そ
の情報の多くはまず目から入ってきます。そして即座に脳で処理されて、やがて心
に達します。したがってここで言う「目」とは、副次的な感覚器官の耳や鼻も含めた
「肉の目」の方ではなく、それらと最終的に繋がる「心の目」を表わしています。と
いうのは、クリスチャンは良心を律法によって訓練された人々だからであり、自発
的にそれを訓練している人々を別にすれば、人間も欲望のままに行動する動物と
なんら変わりはありません。そうしたものの最たる例が「ソドムとゴモラ」であり、彼
らの心の機能の一部、特に良心に関しては退化しています。とはいえ、野生動物
とは違ってその他の心の機能は失われておらず知能も著しく高いので、彼らの
「心の目」はしきりに善からぬことを企むのです。西暦一世紀にはそのような人々
も会衆に紛れ込んでいましたが、それは今日でも全く変わりません。
34節前半で、「体のともしびはあなたの目です。あなたの目が純一なときには、あ
なたのからだ全体もまた明るくなります」とあるように、自分の意志で心の中を
隅々まで律法で照らして明るく健全に保っておれば、その人の言動はすべてそれ
によって制御されるので潔白で安泰です。しかし後半に、「それがよこしまなときに
は、あなたのからだもまた暗くなります」とあるように、その部屋を二重底にしてい
るならどうなるでしょう? 35節で、「それゆえ、用心していなさい。もしかすると、あ
なたのうちにある光は闇であるかもしれません」と述べられている通り、隠し部屋
の方を「別の種類の光」、つまり聖句を巧妙に歪めた詭弁で照らすことによって
「私も全体が明るい」と自分を欺いているのかもしれないのです(ヘブライ3:13)、
だとすればそれは悪魔が支配する闇が主導の部屋、つまり隠し部屋だけでなくそ
の全体が「闇の心」なのです。
したがって物見の塔組織が隠蔽体質に染まった時から、彼らは「闇の心」を持つよ
うになりました。様々な特別学校を設けて秘密教育を施していたことが裏目に出て
しまったのでしょう。それは支配者たちの責任です。それを正す責任も彼ら自身に
あります。彼らには権力が備わっているからです。せめて誰かが荒野であなた方
の間違いを声高に叫ぶ時、その声に注意深く耳を向け、受け入れるべきでしょう。
それは神の預言者からのものではないでしょうか(ヘブライ3:7,8)。それは愛では
ないでしょうか。もしあなた方が本当に聖書を神の言葉だと信じているならばで
す。