人は何のために生まれ、生きるのか? | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

114日 今日はルカ943以降を扱います。  「そこで、人々はみな神の荘厳な


力にすっかり驚くようになった」。


イエスが行なう奇跡の業を見ていた者たちのほとんどはユダヤ人だったので、そ


れを行なったのが人間であっても、「これは神による業である!」という結論に


人々は自然に導かれました(一方、使徒14813の記述のように、その見物人が


諸国民である場合、人間を神の化身と判断するかもしれません)。彼らが「荘厳」さ


を業から感じ取ったのは、それが超人間離れしていたからであり、他の訳では、


「偉大」「威光」という語が使われています。


人間の技に近いところにあるマジックやイリュージョンなども、確かにある意味匠


のスゴワザではありますが、近年タネ明かしが頻繁に行われてきたため、彼らが


行うどんな不思議を人々が見ても、それを超能力としてではなく、初めから「超ま


やかしのテクニック」として捉えるようになってしまいました。こうした背景には、「も


はや神などおらず、人工知能という神を操ることによって人々を驚かす者こそ偉大


な神なのだ」という宣伝が、ある人々によって暗黙の内になされてきたことによる


のでしょう。しかし、言い換えればそれは、大部分の人類にとって「リストラ宣告」で


あることにほとんどの人は気づいていません。表面では各国の首脳が集まって地


球温暖化のもとになるガスの排出を規制しようと、やってる感をアピールしていま


すが、そんなことではとても間に合わないことぐらいちょっと考えれば分ります。で


はどうするのでしょう? 


手始めに人類の三分の一を一瞬のうちに間引きするのです(啓示918)。単純に


人口が減れば自ずとそれを支える産業も不必要になりますので、即問題は解決


に向かうわけです。したがってこれは大患難が引き起こされる主な理由の一つで


しょう。生き残りたいのは影の支配者も同じなのです。しかし彼らの違うところは、


自分が生き残るための超残虐行為にも全く心が痛まない点です(マタイ216)。何


というバケモノなのでしょう。よって彼らには悔い改めもないのでしょう(啓示19


20)。


一方神からの業は、地上のあらゆる法則を天界の法則によって覆すことによって


起きる、言わば上位の支配権による上書きシステムなのです。したがって天界に


関する然るべき知識がなければ、その権威も委ねられることはありません。西暦


一世紀以来、賜物を持つクリスチャンが行う奇跡はやみました。古代においても、


数百年のあいだ奇跡に関して聖書が沈黙している時代はありました。それでも、


永久にそれが無くなったわけではなく、また、人にそれを行う権威を委ねることが


一時的に留められているだけで、奇跡自体は実際に無くなったわけではありませ


ん。それどころか、現代でも無数に奇跡は起きているのです。


今日神の奇跡はどのようにして発揮されているのでしょうか? それとも、神は現


在無活動になっているのでしょうか? ある人々が言うように、そんなものは神も


含め初めから存在しないのでしょうか? 


ところがある人々は神を大変身近に感じながら生活しています。そのような人々


は、ごく当たり前と思えるようなことに対してさえ神に深く感謝して日々の生活を味


わっています。つまり彼らはだれかの気遣いに対して敏感なのです。それは逆に、


だれかに対して敏感に気遣っている人々でもあるのでしょう。つまりこれらの特質


は奇跡の原動力であり、この特質を内面に多く持つ人ほど、常に奇跡に囲まれて


いる人なのです。


ですから、神による創造という概念を真に受け入れたその時から、その人は奇跡


の体験者でもあるのです。そのような意味において言えば、信じる者のまわりに奇


跡は溢れかえっています。そのような人にはまた、その人個人に向けて与えられ


る奇跡的な出来事も生じるでしょう。それを敏感に察知し反応する人だからです。


したがってそれらは彼らにとって、「気のせい」でもなく、「偶然の出来事」でもあり


ません。そして将来それを行う力さえ無制限に与えられるでしょう。それを正しく行


使することが実証されているからです(ルカ1612)。


物見の塔出版物の中に「年鑑」という経験集がありますが、そこで起きている奇跡


的な出来事のほとんどは、おそらく本物でしょう。なぜなら、彼らの中には上に挙


げた特質を持つ者が多く存在しているからです。信者の多くは彼らのミラクル体験


にあやかりたいと熱望し、経験を読みあさります。それで「霊の導き」的な事柄に


驚くほど詳しくなり、敏感にもなります。それでもまだ何かが足りません。何が足り


ないのでしょう?


ルカ944にはこうあります。「この言葉をあなた方の耳にしっかり収めておきなさ


い。人の子は人々の手に引き渡されるように定められているのです」。


イエスの人々に対する気遣いは、目先のことにとどまらず、もっともっと深く、その


源流にまで向けられていました。自分の立場で彼らに対して何ができるのか? 


彼らを死の束縛から引き戻すにはどうすればよいのか? ずっと考え続けていた


でしょう(箴言83031)。この解決法に関する知恵の発案者はエホバ神でした


が、イエスはご自分の命がそのカギとなることを徐々に悟るようになり、やがて心


から自分の命を生贄として差し出す決意をされます(創世記315 222 イザヤ


505)。それと並行して地上では多くの義人たち、預言者たちが命懸けで信仰を守


り通していましたが、イエスはこの姿を天から目撃して大いに励まされ奮い立たさ


れたでしょう(ペテロ第一112)。まさにエホバ神は彼を強制することなく、地上の


劇場を長いあいだ例えとして用いて、イエスの心から最高度の愛を引き出された


のです(ヨハネ1513)。


たとえ神にそれができたとしても、人の心を楽々と自分の好みに取り換えたところ


で、それは「善人の心」と「悪人の心」の着せ替えロボットであり、自己満足に過ぎ


ません。エホバ神はむしろ、まずご自分が苦しむ道を選ばれました。箴言825によ


れば、神は「産みの苦しみを伴うかのようにして」イエスを生み出されましたが、こ


れには自由意思を持つ者の創造と、その意思をあくまでも尊重するという固い決


意が含まれていますので、当然反逆とそれに伴う苦しみの可能性を秘めていたの


です。こうして人類にもそれは受け継がれることになっていましたが、つまずいたと


ころから苦しみは大きくされたのです(創世記316)。ですから決して忘れてはなり


ません、私たちが苦しい時、それ以上にエホバ神は苦しいのだという事実を(イザ


639)。しかしエホバ神がそこまでして得たかった果実は何でしょう?


「全きもの」つまり完全な愛を体現した者の到来です(コリント第一1310)。それこ


そ奇跡の所産の中でも最高の産物であり、エホバ神の「子」また「実」なのです(ヨ


ハネ第一4721)。これらはみな人類のつまづきを修復するため自ら苦しむこと


を買って出た者たちであり、必ず神の助けによって征服を遂げます(ヨハネ16


33)。この超人間離れしたバケモノはこれまでに存在し、今日すでに存在しており、


また完成しつつあり、また今後更に多く出現するでしょう。