今日はルカ4:14以降を扱います。 「それからイエスは霊の力に動かされてガリ
ラヤに帰られた。すると、彼の評判は周囲の全地方にあまねく広まった」
悪魔の誘惑を無事にパスし終えたあと、イエスはガリラヤに帰られますが、14節前
半の記述と後半の記述とでは一年近い時間の開きがあります。この間に記されて
いる聖書中の奇跡は、ヨハネ2:1~11にあるカナの婚宴で水をぶどう酒に変えると
いうものだけでした。その他は、西暦30年の過ぎ越しの際にエルサレムで行ったと
思われる、内容の記されていない「しるし」だけです(ヨハネ2:23)。人々を驚かして
注意を引くためにもっと偉大な奇跡を行なおうと思えばいくらでもできましたが、こ
の間イエスはほとんど目立っていません。やはりここにも「霊の力に動かされ」とあ
る通り、無駄な動きは一切ありません。沈黙することや反応を観察することも「霊
の力に動かされる」ことのうちに含まれることが分かります。
この点、野生動物は本能的に賢く造られています。彼らは敵から逃げる際、闇雲
に逃げるのではなく、全力である程度走った後、突然立ち止まって追手の気配や
追跡状況を感じ取ろうとします。もちろん敵の追跡能力が自分を上回っていたなら
そんな余裕はないでしょう。イエスの場合、もとから他の人間たちとは別格な能力
を有していましたが、それでもその能力に頼るのではなく、さらに上の力である聖
霊の導きに頼りました。
もしあえてこの霊に逆らって行動するなら、先日出て来た「神エホバを試みる」こと
になってしまうでしょう。しかし霊に動かされて従順に行動するなら、その時は理解
できなくても、後にその正しさが立証され、微妙なさじ加減を教訓として学ぶことに
なります。似たような場面でも背後にある状況を総合すると全く違った行動に導か
れることはよくあるからです。神の知恵の凄さは、被造物であるみ使いや人間に
は全く想定できないほど高い点にあります。これに頼らない手はないでしょう。
この点物見の塔は、「霊の力」ではなく自分たちの願望的教理に適合させるため、
特定の聖句を限定的な解釈でこじ付け、この世的な身分、肩書きや組織支配を整
え、西暦一世紀の弟子たちとはかなり異なるクリスチャン会衆を世界中に蔓延ら
せてきました。その結果、違和感によって多くの会衆から「霊の呻き」が発せられ
てきましたが、指導者たちはそれらに耳を傾けることなく無視し、さらには危険分
子と断定して踏み倒してきたのです。彼らにとっては非聖書的な言動も、「霊の力
に動かされた」言動も、同じ危険思想にしか映らず、微妙なさじ加減どころか善悪
の分別すらできていないことをさらけ出してきました。先ごろ和歌山県で発生した
小学生殺害事件は、まさにその縮図のようにも見えます。宗教権威者の家に生ま
れた子らは、宗教本来の目的に添って育てられるのではなく、誇りや見栄や傲慢
さによって絶対的支配で育てられるなら、「霊の呻き」が生じ、特に弱者の場合は
彼らの内に精神の破壊や善悪の迷走状態をもたらすのです(創世記18:20 箴言
21:13)。
最近民放テレビで、「人間の心はどこから来たのか?」を探ろうとする大変興味深
い番組をやっていました。私が驚いたのは、「1メートル四方程度の宙づりにされた
板の上にメトロノームをびっしり縦横に並べ、それぞれを全くバラバラのリズムで
作動させる」という学者たちの実験結果です。数分後にはそれらすべてが、まるで
北朝鮮の軍隊行進の如く、全く同じリズム、同じ動きで整然と作動していたので
す。「そんな馬鹿な!」「あり得ない!」と一瞬思いましたが、種明かしはつまり固
定されていない土台にありました。本来メトロノームが刻む個々のリズムの違い
は、固定された土台という前提条件の上に成り立っており、土台が可動性で繋
がったものであれば、すべてが共有し合い、干渉し合うその土台が「協調リズム」
の発信的役割を担うことになるということです。学者たちの意見では、「これら協調
のリズムの発信が人類を取り巻く環境を意味しており、(社会環境という心)と(人
類祖先の猿族の原始的な心)との長い長い年月における相互干渉の繰り返しが
刺激となり、やがて高度な心を生じさせる人類の脳へと進化させていったのでは
ないか」という見解でした。
しかし聖書的に言えば、み言葉という盤石な土台を退け、神から独立した人類の
可動性共有土台とは「海」を表わしており、その不安定な土台から発信される「協
調リズム」とは、試行錯誤によって世界的な協調事項として承認され蓄積していっ
た、一見安全に見える既存の部分「地」を表わしています(マタイ7:24~27)。この
「海」と「地」という二つの場所から出た二匹の「野獣」が、人間主導の人類一致の
阻害者となって来た「大いなるバビロン」を史上最大の大量殺戮によって消し去り
合体した時、絶対的土台、つまり「神」が地上に誕生するに過ぎません。この「神」
の正体は所詮「獣」ですから、その支配に対する人々の反応は決して良いもので
はありません(ルカ21:26 啓示13:15,16)。その時、史上最悪の「霊の呻き」が発
せられるでしょう。
しかし「聖霊」は神のご意志と調和し一致しているので、皆が自発的に「揺るがぬ
土台である聖書」と「霊の力に動かされ」るなら、すべては真の平和と幸福で一致
するはずです。