今日はマタイ 26:23 以降を扱います。 「イエスは答えて言われた、私と一緒に
手を鉢に浸す者、それが私を裏切る者です」。
イエスはいったい何のことを言っておられたのでしょう? 並行記述のマルコ 14:
20 にはこうあります。 「それは十二人の一人で、私と一緒に共同の鉢に手を浸
している者です」。 では、「共同の鉢」 とは何でしょう? そのヒントとして、ヨハネ
13:18 には、「常々私のパンを食していた者が、私に向かってかかとを上げた」
という言葉が、詩編 41:9 の聖句の引用として記されていますが、原型はこうな
っています。 「また、私と平和な関係にあり、私が信頼した人、私のパンを食べて
いたその人が、私に向かってそのかかとを大きくしました」。 これはダビデの側近
だった顧問官アヒトフェルの裏切りについて述べたもので、ユダ・イスカリオテを予
表していました(サムエル第二15:12,31)。 「私のパン」 つまりアヒトフェルは、
ダビデ王によって備えられる同じ釜の飯を食う信頼された立場の人だったわけで
すから、「共同の鉢」 とは、イエスとその使徒たちの生活を支えていた 「金箱」
をあらわしていました。 あくまでもそれは 「共同の鉢」 であり、個人の所有物と
して取り分けられる分は全く含まれていません。 それは平和と信頼を象徴する共
同の糧であり、貧しい人たちのための糧ともなりました。 後に 「使徒たちの活動
の時代」 の初期に、エルサレム会衆はこれと全く同じスタイルをとってすべての資
産を共有しました。 しかし、自分たちのために一部を取り分けていたアナニヤと
サッピラは、たちどころに撃たれて息絶えました(使徒5:5,10)。 ですから、集合
している信者の精度が上がれば上がるほど資産の共有度も高まり、そのうちでの
不正は罪が重くなります。
ところがイエスはマタイ 26:21 で、「あなた方のうちの一人が私を裏切るでしょう」
と言われた後で、さらに 23節で、「私と一緒に手を鉢に浸す者、それが私を裏切
る者です」 と言われたので、「私と一緒に手を鉢に浸す者」 という言葉は、もっと
早急な、まさにこれから行おうとしている行動であることが分かります。 しかし、マ
タイもマルコの書も、その後の記述が記念の儀式へ飛んでしまっているので、意味
不明ですが、ヨハネ 13章にはその部分が実に詳細に述べられています。 イエス
は十二弟子への模範として彼らの足を洗われた後、裏切り者を特定する場面に
入っていったことが分かります。 18節では、詩編 41:9 の引用があり、21節で
は、イエスは霊において苦しまれ、「きわめて真実にあなた方に言いますが、あな
た方のうちの一人が私を裏切るでしょう」 と言われ、26節で 「私が一口の食物を
浸して与えるのがその人です」 と言われた直後に、実際にそれを取ってシモン・イ
スカリオテの子ユダに与えた、つまり一切れのパンをぶどう酒に浸してユダに与え
たのです。 彼はそれを受けた後、サタンがその者に入り、30節で、「その後すぐ
出て行った」 とあります。 注目すべき点として、ヨハネはここで 「パン」 や 「ぶ
どう酒」 という言葉を一切使っていないということです。 「食物」 や 「浸す」 と
いう表現に置き換えています。 これは、その場にあったパンもぶどう酒もごく普通
の物でしたが、ユダの受けた物は霊的に言って全くの別物であったことを表わして
いるのでしょう。 ユダが去ったその後、記念式を執り行った際に、パンとぶどう酒
は別々に回され、それぞれの価値を持っていましたが、ユダが受けたのはぶどう
酒に浸されたパンでした。 つまり彼にとっては儀式的意味の全くない、胃袋の中
で混合されてしまう単なる食物に過ぎなかったのです。 イエスご自身も記念式の
パンとぶどう酒にはあずかっていませんでしたが、しかしその前まではユダと共に
「共同の鉢」 から同じ食物にあずかっていたのです。 それでイエスは、「私と一
緒に手を鉢に浸す者、それが私を裏切る者です」 と言われたのでしょう。
次いでイエスは、「確かに人の子は、自分について書かれているとおりに去って行
きますが、人の子を裏切るその人は災いです! その人にとっては、むしろ生まれ
てこなかった方がよかったでしょう」 と言われます。 この言葉はどう解釈すれば
よいのでしょう? 自由意思には必ず可能性として負の副産物が伴っていると考え
ることができますが、単なる可能性だけでなく、現実問題としてもそれは避けようが
ないという結論になります。 イエスご自身もヨハネ 6:70 で、「私があなた方十
二人を選んだのではありませんでしたか。それでも、あなた方のうち一人は中傷す
る者です」 と認めておられるように、この問題を避けて通ることはできませんでし
た。 ですから、「神の愛」 を論じ、またそれを受け入れる時、人は丸ごとそれを
受け入れるのでないかぎり、必ずそれにつまずくことになるでしょう。 また誤解の
ないように、徹底的に正しく神の愛を伝えられる必要があるのです。