イエスは弟子たちの質問以上のことを備えられた | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

今日はマタイ 241 以降を扱います。 エルサレムの神殿におけるイエスの公の


宣教は、この日で最後となりました。 その時、イエスがそこを去って行かれる際で


したが、神殿の素材となっている大きな石や、その造りの壮麗さに目を留めた弟


子たちが近づいて来ます。 マルコ 131 では 「師よ、ご覧ください、何という


石、それに何という建物なのでしょう」 という一人の弟子の言葉も記されていま


す。 今回になって初めてこうしたことが話題にされたのは、先ほどイエスがエル


サレムに関して、「これまで殺されたすべての義人の血がこの世代に要求される」


とか、「この家は見捨てられている」 とか、不吉なことを預言されたからでしょう。


バビロンによる西暦前587年のエルサレム破壊と、目の前にあるこの偉大な神殿


のことがリンクして、弟子たちの頭を 「まっ、まさかねぇ~ そんなっ、ねぇ~」 


と、よぎっていたのかもしれません。 イエスはそれに対して自信たっぷりにこうお


答えになります。 「あなた方はこれらすべてのものを眺めないのですか。あなた


方に真実に言いますが、石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは


決してないでしょう」。 ここで 「眺めないのですか」 というイエスの表現は、いささ


か変にも思えますが誤訳でしょうか(ちなみに、マルコとルカでは普通の言い回し


です)? そうではなく、まさに弟子たちの危惧していた、その心にある古代の神殿


の破壊とのリンクをイエスが汲み取って語っておられたからでしょう。 「まさに今、


あなた方が感じたそれです! その通りに起きるのが怖くて将来の事実を受けと


めそれを眺めることができないのですか?」 という意味でイエスは言われたので


す。


ルカ書では省略されていますが、その後しばらくして場所をオリーブ山に移し、イエ


スが神殿の見える場所に座っておられたところ、マルコ 133 によれば四人の弟


子たち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが自分たちだけで近づいて来てこう質問


します。 「私たちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そし


て、あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。


人は自分の知らないことを質問することはできません。 したがって、まだ知識の


浅い弟子たちには、自分たちが実際には何を質問しているのか理解できない部分


が多々ありました(ルカ933)。 それでも弟子たちは、単純に三つのことを知りた


がっていました。 「先ほどイエスが言われた神殿の破壊の時期」、そして 「イエス


が王として行動される時」、そして 「それらすべてが始まる時を前もって見分ける


しるし」 についてです。 これだけでも弟子たちにとっては十分考慮して信仰を示


したつもりでした。 恐らくダニエル書の終わりの日における様々な預言を考慮し


たことでしょう。


ただ新世界訳聖書では 「臨在」 という実にそれっぽい造語が当たり前のように


使われているので、混乱を招いているようです。 他の翻訳では 「来られる」 とし


か訳されておらず、実際、原語にはそのような意味しかないはずなのに、物見の


塔では、1914年の天の王国設立時の戴冠から事物の体制の終結までの王イエス


の在位期間を 「臨在」 としているので、単純に弟子たちの言いたかった、イエス


の 「再来」 または 「到来」 とごちゃ混ぜになってしまっているのです。 つまり


聖書中には確かに事象としては存在していながらも、特定の言葉としては実際に


用いられていない言葉を無理やり造って不適切な場所に挿入してしまっているの


です。 事実、当時の弟子たちが、イエスの戴冠式からハルマゲドンの終了時まで


100年以上もかかることなど知るはずもありませんでした。


それでもイエスは、「臨在」 に相当する言葉は一切用いず、実際には 「臨在」 


に相当する出来事の際にどんなことが生じるのかを事細かに説明されることによ


って、当時の弟子たちや、今日の私たちにとっても知る必要のある重要な時を見


分けるしるしを語られたのです。 なぜならそれは、今日私たちが経験して来たよ


うに、非常に長い期間にわたる辛抱が必要とされる道だったからです。 実際多く


の人々は、物見の塔の繰り返される偽預言によって、本当にあることまでないこと


のように感じてしまっているからです。 それは非常に残念なことではないでしょう


か。 事実を事実として受けとめ、偽りを偽りとして退けることによって、今一度こ


のマタイ 24章の預言を調べ直してみましょう。 預言では、すでに大患難の際、だ


れも数えつくすことのできない大群衆が出現することに定まっています。 それは


今後多くの人々が、神とキリストに信仰を持つようになる結果にほかなりません。


すでに結果は出ているのですから、あとは聖霊の導きに従って前進するのみで


す。