今日はマタイ 14:14 以降を扱います。 「さて、出て来られた時、イエスは大群衆
をご覧になった。そして、彼らに哀れみを感じ、その中の病気の者たちを治され
た」。 イエスは天におられたずっと昔から、四千年にも及ぶ地上での人類の惨状
をその始まりの時から観察してこられました。 普通の人間でさえ、もし自分にそ
の力があったなら、これをどうにかしたいと思うはずです。 イエスであればどれほ
どそれを願ったことでしょう。 とはいえ、ごく限られた地域で限られた寿命の人間
がそれを行うには限度があり、例え自分の代ではうまくいっても、次の代にはまた
元に戻ってしまうかもしれません。 そんなことは焼け石に水であり根本的な解決
にはならないのです。 それで今はご自分にできることをできる限りやるしかありま
せん。 ましてイエスが遣わされたのは選ばれた民であるイスラエルでした。 神の
選民に律法まで与えられながら、マルコ 6:34 を見ると 「彼らが羊飼いのいない
羊のようであったからである」 とあって、民は従属の牧者たちに顧みられず特別
に悪い状態にあったのです。 羊は元来家畜として創造されており、人が世話をす
ることで平和に暮らせる生き物でした。 創世記 4:4 には 「一方アベルの方
も、自分の羊の群れの初子の中から、その脂ののったところを携えて来た」 と記
されており、こんな初期の段階から牧羊が行われていたことが分ります。
同様に神の民にも世話をする人が必要です。 彼らは羊に例えられているからで
す(詩編100:3)。 というよりは、人間そのものが元からそのように創造されている
と言っても過言ではないでしょう。 エレミヤ 10:23 の 「エホバよ、地の人の道
はその人に属していないことを私はよく知っています。自分の歩みを導くことさえ、
歩んでいるその人に属しているのではありません」 という聖句がそのことを証しし
ています。 ですから、この点でイスラエル国民は超先進的国民だったと言えるで
しょう。 諸国民のように神から疎外され、もとから立派な管理が期待されていなけ
れば諦めもつきますが、その反動で多くの国ではクーデタや銃を持った紛争によ
って自分たちの牧者を探し求め、顧みられず、この失われた部分への欲求を戦い
に明け暮れることによって紛らわしています(エフェソス2:12)。 人の造りをよくご
存知であったイエスにとって、ご自分に属する民が今まさに彷徨っている姿を見て
見ぬふりはできませんでした。 それはご自分の心臓がかかとでぐりぐりと踏みに
じられるほど苦しみの伴う哀れみの感情だったに違いありません。 ですから牧者
とは、人のゆくべき道を正しく指し示す人でなければなりません。 その道を知って
おり、見えない神から霊による指示を受ける時、その指示に敏感に反応し、それを
理解して実行できる者でなければならないのです。 実際の羊とその人間の牧者
が次元の違う生き物であるように、人間の中の羊と牧者もそのようでなければなり
ません。 人を他と異ならせるものは何でしょう? それは上から来る霊以外にあ
りません。 それゆえに 「人はみな平等だ」 というのです。 聖霊による牧羊と管
理これが神の支配です。
西暦一世紀のクリスチャン会衆が産声を上げた時、最初に起きたのは120人の弟
子たちに対する聖霊によるバプテスマでした。 つまり会衆とはこのことなのです。
同時に彼らの一部の者にはあらゆる霊の賜物が配られました。 これについては
エフェソス 4:8 にこうあります。 「高い所に上った時、彼はとりこを連れ去った。
彼は人々の賜物を与えた」。 これはどういう意味でしょうか? 結果としてイエス
は、「彼がすべてのものを満ち満ちたものとするためでした」 という目的のため
に、普通の人間を聖霊の力によって使徒、預言者、福音宣明者、牧者、教える者
という超能力者に化けさせたことを意味しています。 したがって彼らはみな、賜物
を受けた人も受けていない人も、人間から出たのではない神の能力によって養わ
れていたのです。 今日同様の特別な霊の賜物は配られてはいませんが、その仕
組みは同じです。 油注がれた弟子たちがそれぞれ受ける霊は一世紀と同じで変
わりませんが、賜物はあっても生まれつきのもの程度でしょう。 奇跡的に何かを
行なえる力を持っているわけではありませんが、奇跡的に霊によって導かれ保護
されています。 全能者エホバは強力な賜物によってガンガン導くことも出来ます
が、微弱な賜物を微妙に操ることによっても同じように導くことがおできになるので
す。
これが今日の会衆であり、今は権威を与えられていないので、雑草に紛れて弱々
しく見えますが、定めの時に権威を与えられたなら激変するでしょう。 羊たちには
それらを識別する視覚、聴覚、嗅覚が備わっています(マタイ24:28 ヨハネ10:4,
5 コリント第二2:14,15)。 それで、たとえ脅されても雑草を見倣う必要はありま
せんし、彼らと肉的に戦う必要もありません。 堂々と、あるいはこっそりと、聖書と
調和した食物だけを取り入れて成長し続けることができます。 信仰を受け入れた
からといってすべてのものを後にするのはごく限られた一部の人たちだけです。
そうでなければすべてのクリスチャンは世から出なければならなくなります(コリント
第一5:10)。 「外から入って行ってその人を汚すことのできるものは何もありませ
ん」 とある通りです(マルコ7:15)。 むしろ悪いものが心の中から出て来ないよう
に注意しましょう。 汚れが心から遠ければ汚れるたびに洗えば済むことです。
それでイエスはヨハネ 13:10 で弟子たちの足を洗ってこう言われました。 「水
浴びした者は、足を洗ってもらう必要があるほかは、全身清いのです」。