決して失わない自分の報いとは | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

今日はマタイ 1040 以降を扱います。 「あなた方を迎える者は私をも迎えるの


であり、私を迎える者は、私を遣わした方をも迎えるのです」。 地上にいる人間の


弟子、そしてイエス、そしてエホバ神、この三者が繋がって一つに見なされていると


いうのは、少なくても地上部の人間の弟子にとっては恐れ多いことです。 ヨハネ


1030 でイエスは、「私と父とは一つです」 と言われましたが、それは分かりま


す。 しかし不完全で肉なる者が、ここに入って良いのでしょうか? いいえ、紛れ


もなくここに記されています。 では、どのような意味でこの三者が繋がっているの


でしょう。 まずエホバ神とイエスの関係はどのようなものだったでしょう? 同等で


はありませんでしたが、エホバ神がイエスをご自分の使者として地上に遣わされ


た、という点が挙げられます。 遣わされた使者は遣わした方の栄光を現す必要


がありますが、イエスはこの点で完璧でした(ヘブライ134)。 事実イエスはヨハ


 149 で、「私を見た者は、父をも見たのです」 と言えるほどにエホバ神の栄


光を地上で現されました。


では弟子たちは一体イエスの何を見たのでしょうか? 奇跡ですか? 確かに奇


跡を見ましたし、自分たちでさえそれを行う特権に預かりました。 しかし、もしこれ


が奇跡的な癒しのようなことを指しているとすれば、今日その権威を授かっていな


い者たちは神の栄光を現せないことになってしまい、一世紀でこの聖句の適用は


終わったことになってしまいます。 しかも弟子たちどころかイエスでさえ、そうした


権威はエホバ神からもらったものに過ぎません(コリント第一47)。 ですから、こ


こでいう神の栄光とは主に個々の内面から現れる特質と関係しています。 また、


ハネ 1029 では 「父が私に与えてくださったのは、他のすべてのものより偉


なものであり、誰もそれを父の手から奪い取ることはできません」 と記されてお


り、最も偉大な特質である愛において際立つことと関係しています(ヨハネ1513 


コリント第一1313)。 ところがこの聖句では翻訳は分かれているようですが 「偉


大な者」 とはなっていません。 愛が人から出たかのように、人その者からの栄


光を表わすのではなく、神から出た最高度の愛に地から買い取られた人間が到達


した状態のことを言っています。 啓示 198 では、「まさに彼女は、輝く、清い、


上等の亜麻布で身を装うことを許された。上等の亜麻布は聖なる者たちの義の行


為を表わすのである」。 となっており、内面の義が外面に命懸けの行為となって


現れたことに加えて、さらに、それで身を装うことの許しが与えられなければ、その


場には入れないことが分ります。 つまりそれほどまでに神の愛に執着していて


も、神による選びによるのでなければ、この三者の繋がりに入ることはできないと


いうことです。


したがってその弟子を見分ける側の人々は、彼らの幾つかの側面の中に神から


の特別な何かを感じ取ることになります。 その幾つかとは、マタイ 104041 に


「預言者であるということで預言者を迎える者は預言者の報いを得、義人であると


いうことで義人を迎える者は義人の報いを得るでしょう」 とあります。 大きな権力


を持っていると聖霊風の導きを捏造し、演出することも可能ですが、真の預言者の


場合は、今日でさえ人間の力では不可能な出来事が導きとして付きまといます。


それで、その出所を十分試す必要があります(ヨハネ第一413)。 本当の義人


かどうかは死んだ後になって解かることさえあります(ルカ234748)。 ですから


義人が生きている間に 「信じないから」 という理由だけで裁かれることはありま


せん。 むしろイエスは人に付いて行くことの危険を警告されました(マタイ2423


28)。 ですからマタイ 104041 は、人にではなくその業に、例え人に騙されて


も、その業に対してしたゆえに報いは消えないことを示しています。


更に 42節では、「そして、弟子であるということでこれら小さな者の一人にほんの


一杯の冷たい飲み水を与える者が誰であっても、あなた方に真実に言いますが、


その者は自分の報いを決して失わないでしょう」。 とあります。 預言者、義人、


弟子である。 人がそれぞれ何に関心を持っているのか、捉え方は違うことを示し


ています。 弟子たちは成長に応じて生み出す実があるので、最初から全部そろ


っているとは限りません。 しかしそれぞれの特徴を認識して彼らを迎え入れたり、


必要物を与える時、その者には報いがある、とイエスは言われます。 羊とヤギの


例えとは違って、彼らはいつも弟子の近くにいるわけではないかもしれません。 も


しかすると一期一会のような接触なのかもしれません。 「一杯の冷たい飲み水」 


とは、文字通りの水とは限らないでしょう。 「冷たい」 という言葉の背後には心か


らの親切が関係しています。 偽の弟子に騙されたり裏切られたりすることも多々


あることでしょう。 それでもその人の行った心からの業が神に忘れられることは


決してありません。


では、その報いとはいったいどんなことでしょう? 楽園での永遠の命でしょうか? 


必ずしもそうとは限りません。 人が何かを認識できるのは、それと全く同様の素


質をその人自身が持っている場合があるからです。 ですから新しい世でその素


質が開花し結実に至る可能性が高い、少なくてもそうでない人よりはその面で優


遇され、用いられることを表わしています。