回り尽すことの意味と、その前にやっておくべきこと | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

今日はマタイ 1023 以降を扱います。 「人々がある都市であなた方を迫害する時には、別の都市


に逃げなさい。あなた方に真実に言いますが、人の子が到来するまでにあなた方がイスラエルの諸


都市を回り尽くすことは決してないからです」 この聖句の中に込められているメッセージは何でしょ


う? 弟子たちがどんなに頑張っても、人の子の到来までに業を完遂させることは絶対不可能であ


る。 ゆえに迫害に何が何でも耐え忍ぶかのようにして一つの都市に執着する必要はなく、むしろ他


の都市に逃れて良い便りの音信を聞く地域を拡大せよ。 という意味にとって正解でしょう。 これには


法的に聖霊の立ち入ることのできない分野、つまり人の心の勝手な操作まで要求されているわけで


はないことが関係してくるので、人によって機会の扉が開かれるためのそれぞれの時期があり、それ


を無視して活動しても無駄な抵抗に過ぎない(マルコ42629)。 すべては徒労に終わることを示し


ています。


ということは、この聖句はたった一つの都市でさえ、その世代には目的を完遂できないことを表わして


いるということが分ってきます。 そこで、この聖句の 「回り尽くす」 とはどういう意味か? という疑


問が湧いてきます。 イエスが初めから音信を聴く人々のグループを分けて考えておられたと考える


のは道理にかなっています。 イエスがまず集めたかったのは、将来ご自分の身体となる花嫁級の


人々でしたから、この時代に全てを揃えると考えるなら聖書預言と矛盾が生じてきます(マタイ2431 


啓示734)。 したがってイエスが言われた 「イスラエルの諸都市」 とは、文字通りのユダヤ人国


家の諸都市のことではありません。 最終的に花嫁級全体が集められる母体となる全世界の人々を


表わしていました。 順序からいくと、ユダヤ人・・・サマリア人・・・諸国に散ったユダヤ人と諸国民・・・


背教(長い暗黒時代を経て)・・・キリスト教世界からの選ばれた民・・・諸宗教、諸国家からの選び・・・


選ばれた者たちの背教(背教によって散らされた者たちの回収)・・・最後の者たち、という感じになり


ます。 イエスの時代、これらすべてが 「イスラエルの諸都市」 を表わしており、今日では全世界が


「イスラエルの諸都市」 を表わしています。 なぜなら、「人の子の到来」 となるハルマゲドンの際に


はすべての花嫁級が揃っていることから考えると、つまり 「回り尽くされた」 ことになるので、今日、


イスラエルの 「諸都市を回り尽くすことはない」 という言葉の意味は、今日花嫁級以外の人々に関


しても使われていることが分るからです。


では、実際の歴史的事実である結果論から考えるとどうでしょうか? マタイ 2334 では、「私は


今、預言者と賢い者と公に教え諭す者たちをあなた方のところに遣わします。あなた方はそのうちの


ある者を殺して杭につけ、ある者を会堂でムチ打ち、都市から都市へと迫害するでしょう」 とイエスは


言われましたが、実際、資格のある有能な者たちが諸国の広域に遣わされ、やがて弟子となった者


たちが迫害され、彼らが逃げることによってキリスト教は急激に広がって行きました(使徒814 9


1215 1347)。 大抵どこの都市にもユダヤ人社会と彼らの会堂があり、音信はまずここから


伝えられ、まずユダヤ人が分けられていったのです(使徒1315)。 そしてイエスはこの言葉をマ


ムシらの子孫に対して語っておられました(マタイ233334)。 ユダヤ人ではない者たちからも花嫁


級は集められましたが、集められなかった異邦人たちが 「回り尽くされた」 わけではありませんでし


た(使徒134751)。 つまり 「羊とヤギに分けられて」 はいませんでした。


しかし弟子たちは本当に諸都市を回り尽くしていなかったのでしょうか? 使徒パウロはコロサイ 1


23 の中で「その良い便りは天下の全創造物の中で宣べ伝えられた」 と語っていますが、ここで言う


ところの、「全創造物の中」 とは物理的 「区域」 のことを意味しており、ローマ 1523 でパウロ


は、「しかし今はもう、この地方に手のつけられていない区域はありませんし」 とコリント人の地方の


ことを述べていることからも分ります。 したがってイエスの言うところの 「回り尽くす」 という意味で


はないことが分ります。


西暦一世紀には、確かにある意味で 「人の子の到来」 があったでしょう。 それは西暦70年のエル


サレムの滅びの際に成就しました。 そして当時のクリスチャンは、イエスが言われた 「回り尽くせな


い」 ことを念頭に置いて行動していたことでしょう。 それで今日同じ業に預かる人たちは、「永遠の


命のために正しく整えられた者」 がいない場所で闇雲に区域網羅を繰り返すのではなく、その密度


の濃い場所で活動する方が多くの実を生み出せるでしょう。 「永遠の命のために正しく整えられた


者」 つまり羊には混ぜ物のない良質の餌場が必要なのです(ペテロ第一22)。 したがって初めか


ら混ぜ物を与えられているなら正しく整えられるはずはりません(自分で選り好みできた者は別とし


て)。 今急務なのは、かつて国際聖書研究者が行ったような、み言葉の解釈の精錬作業なのです。