インマヌエルに関して昨日の記事を調べていたところ、現代のインマヌエルがまさにミカ 5:5 の
「七人の牧者、八人の君侯」 であることが解ってきました。 彼らが起こされるのはアッシリア軍が
ユダの領地に入る時のことであると述べているからです。 それは大いなるバビロン倒壊後のことで
す。 そして彼らはクリスチャンでありながら剣を用いると記されているので、これは啓示 11:3~6
のモーセとエリヤの二人の証人による火のような音信の証言活動であり、この間は野獣でさえ手出
しができません。 それゆえにイエスと霊によって結びついた彼らは全地において 「しるし」 となり
ます。 そのことはイザヤ 8:18 に記されており、この部分をパウロはヘブライ 2:13 で引用し
それが実際は誰のことをいっているのか、なぜなのか、その聖句の前後でより解りやすく詳細に説明
しています。 この苦難の時は、それまでに過ぎ去った長い平凡な時とは違い、四方の風が解き放
たれる特別な時でもあります(啓示7:1~3)。 これは何を意味しているのでしょうか?
イエスや使徒たちの時以来ずっと封印されてきた、奇跡が起きる時である可能性が極めて高いとい
えます。 それは多くの者たちを霊的に生き返らせるため、また彼らの反対勢力があまりにも強力で
あるゆえに、それに対抗できる強さをご自分の僕たちに与えるためでもあります(ルカ15:22,23)
イエスが杭に付けられていた時、両脇にいた二人の強盗のうち一人はその場で信仰を持ちました
(ルカ23:39~43)。 ダニエル 12:2 でも、この苦難の時に霊的に目を覚ます者たちが多くいる
と記されています。 さらに啓示 11:13 でも、その時起きている異常なことのゆえに恐れ驚いて
天の神に栄光を帰す者が全世界でかなりの数に上るであろうことを示唆しています。
しかしこれまで物見の塔の見解では一貫して、土壇場の悔い改めはありえない(認めない?)とずっ
と言い続けてきました。 果たして本当にそうなのでしょうか? 人は置かれている状況によって相当
変わるものではないでしょうか? 使徒 16:23~34 の記述を見ると、パウロたちを留置していた
牢番も一家で丸ごと、たった一夜の出来事でバプテスマを受けてクリスチャンになってしまったので
はなかったでしょうか? 多くの人を救うためにエホバは、特別な時に特別な行動を起こすとは考え
ないのでしょうか?
この最後の日に救われるため、イザヤ 26:20 では、奥の部屋に入り、後ろで扉を閉じ、糾弾が過
ぎゆくまで、ほんの少しの間身を隠せと記してあります。 物見の塔ではこの 「奥の部屋」 を世界
中の会衆である・・・・と今のところ発表しています。 しかしマタイ 24:40,41 では、救いの根拠
が特定の場所や集団に属する以外の何かであることを明確に示しています。
そのヒントがイザヤ 8:16,17 にもありました。 背教した神の家の者たちの中にあって、証と律
法を隔離して持っている者、つまり自分がその時までに蓄えた聖書の掟を誰にも取られないように心
の中で堅く守る決意をしてエホバを待ち続ける者たちが救われる者たちです。
これは決して利己的な行動ではありません。 誰かが神の基準を固く守っていない限り、誰かが光と
して輝いていない限り、そこは暗闇のままであり、誰も救われることはないからです(イザヤ8:19~
22)。 昨日の記事にも記しましたが、現役で見える組織に留まる決意をしておられる方たちは、こ
の点で大いに試されることになるでしょう。 サタンは醜い攻撃を矢継ぎ早に仕掛けてきますが、それ
は義人たちの心に復讐の精神を芽生えさせ、こうして自分と同類の価値のない人に変えさせるわな
だからです。 それゆえに 8:16 にあったように、証と律法を包んで封印する必要があるのです。
ではどれほど待つことになるのでしょう? それはダニエル 12:11,12 の預言から換算して、イ
エスが処刑されてからペンテコステに至るまでの日数程でしょう。 この時すでに油注がれたクリスチ
ャンは地上には一人もいません。 油注がれた人々がいる間は、すべての注意が彼らに集中するの
で大群衆は安泰です。 しかしいなくなった時、その矛先は大群衆に向けられます。 これが最後の
試練となるところです。