マタイ 7:12 黄金律の意味するところ | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

マタイ 7:12 の、「それゆえ、自分にしてほしいと思う事はみな、同じように人にもしなければなり


せん。 事実、これが律法と預言者たちの意味するところです」 この聖句は、その後半部分にある


通り聖書全巻の神髄であることが解ります。 その前から続く 7~11節で、弟子たちが聖霊を神に


祈り求める際、人間の親を 「邪悪な者でありながら」 と引き合いに出して、彼らでさえ自分の子供


のためを思い最良の物を備えるのであれば、まして神はどれほど完全な贈り物を備えてくださるのか


という話の直後に、「それゆえ・・・・」 と始まっている部分なので、「自分にしてほしいと思うことを他


の人にする」 とは、親心で我が子に接するレベル以上の心遣いが赤の他人に対して求められる業


であり、簡単でも単純でもありません。 また、自己満足のための独善的業でもありません。


自己中心的にこれを行うなら失敗するのは目に見えて明らかです。


つまり、「自分がされて嫌なことは他の人にもしない」 という配慮が根底にあって初めて完成する業


だからです。 これはキリスト教と儒教の最大の教えを比較して、一方を高め一方を卑しめるような精


神の中からは決して生まれてきません。 なぜなら、「自分がされて嫌なことはしない」 というそのこ


と自体をその人自身がすでに行っているからです。 


それはいちばん大きな意味では犯罪行為をしないという意味になりますが、小さな意味では罪にさえ


当たらない多くの事柄が含まれています。 例えば、問題によっては穏便に済ませてあげる、つまり


過度に厳しく追及しない。 相手の立場を考えて周りに気づかれないようにしてあげる。 露骨に、こ


れ見よがしにではなく、恥をかかないように配慮する。 皮肉っぽさを含めない。 見返りを一切求め


ない。 相手を出汁に使わない。 など、他にもいろいろあるでしょう。 


ある人の行う積極的な業にこれらの配慮が欠けているなら、本当の意味で 「自分にしてほしいこと」


にはならないでしょう。 かえって迷惑、おせっかいになり、せっかくの良い業も台無しです。 


それで 「自分にして欲しいと思う通りに他の人にする」 というこの聖句は、それを行う人が、まるで


神かキリストが行っているが如く自分の益のことは全く考えず、専ら他の人の永遠の益だけを深く考


えて行う時、聖霊の働きによってその真価を発揮することになるのです。 


こうした業から衝撃を受けた人は、下の領域からは決して出てこない神の存在を意識または予感す


るようになり、やがてその人自身も聖霊を知り、愛を知るようになり、その源である神を知るようになり


ます。 これこそ今日のクリスチャンができる奇跡の業、黄金律の実践です。 病人を癒したり死人を


復活させたりする派手さはありませんが、本来人間が最も関心を寄せるのは同じ人間ではないでしょ


うか。 それは霊長類という地上の動物に属しているのではありません。 私たち人間は神の像に所


属する生命であり、確かに外見は類人猿に似ていますが、人間にだけ心という神に属する特別な領


域が備わっています。 この領域に神から出ているもの、つまり霊から出た信仰、希望、愛を注ぎ込


めば、その魂は癒され、やがて生き返ります(マタイ12:18~21)。 一方、人からつまり肉から出


た助けはやればやるほど人を苦しめ傷つけます(マルコ 5:26)。 


こうした業は相手にとっても喜びですが、行う人にとっても喜びです。 さらにこの業を与え続ける人に


は神からの支えがあります。 「受けるより与えるほうが幸福である」 という神からの聖霊によっての


み味わえる無上の幸福感という祝福が約束されているからです。 


これらとは逆に ガラテア 2:11~14 のように、パウロがペテロをみんなの前で戒め恥をかかせる


ことによって教訓とされた例もあります。 特に責任の重い立場にある人には必須です。 彼らをみん


なの前で戒めることは会衆すべてにとって益となります(ヨハネ21:15~19)。 模範者が罪を悔い


改める姿、その姿そのものがみんなの模範となるからです。 もしそれが本当の友ならば、その時は


気まずくなっても、しばらく時を経た後には感謝されるでしょう(箴言9:8,9)。 それが隣人としての


親切であり真の友の証でもあるからです。 


また隠された良いことであれば目立つようにしてあげることもできます(偽善的なことに対しては共犯


となるので注意が必要です)。 誰でも自分を高める者は低くされ、自分を低くする者は高められるの


です(ルカ14:7~11) とある通り、それは神の聖霊によって定めの時になされるのです。