エホバが言葉を語られる時、それと共にその霊も出て行き、無限から有限へのとてつもないエネルギ
ーの転換変位が起きます。 やがて活動は広い範囲に及び目的を成し遂げると穏やかになります
が、止まることはありません。 霊の働きは無限であり、無限が有限になることはないからです。
創世記の創造に関する記述はまさにこの連続であり、濃密な聖霊のエネルギーの中で過ぎた時間
は、肉なるものにとっては何億年という途方もなく長い時間を意味しますが、実際は霊の領域からす
れば、6日にすぎないということです。 地上と天の領域ではこれほどの違いがあります。
聖霊を自在に操ることができる神にとっては、「1日は1000年のようであり、1000年は1日のようで
ある」という言葉もそのような意味です。 そして強力な聖霊が働いた後には、人間の科学では説明
のつかない実態が残されており、これが奇跡であることを忘れてはなりません。
全員が霊によって油注がれていると公言している統治体でさえ、こうしたことを人間の科学の観点か
ら説明しようとするので多くの矛盾が生じます。
それで、創世記10:25で 「地が分けられた」とあるのは、ただ、人々が原語の混乱によって分けら
れたというだけの出来事ではありません。 この時まさに文字通りの大陸が分けられ始めたのです。
創世記11:9にある通り、エホバは地の全面に人を散らされた時、大地殻変動をも起こしておられた
のです。 一つの言葉で2つのことを成し遂げる、ここがエホバの言葉のくすしく偉大なところです。
実際これより少し前、ノアが箱舟にいる間にも既にそれは起きており、これによって隆起したため台
地が海から現れたというのは周知の通りです。
オーストラリア大陸の有袋類の謎も全くの不思議でも進化でもありません。 エホバが言葉を発せら
れる時、とてつもない力がその知恵と共に働き始めるのです。 そしてもしそれが必要なくなれば、聖
霊は神のもとに再び帰ってきます。
この点で詩編146:4に 「人が死ぬとその霊が出て行く」とあるのも、それは聖霊のことであり、物
見の塔が曖昧に述べているような 「うまく説明のつかないある種の生命力」のようなものではありま
せん。 (ただし、使徒7:59でステファノが言う霊は、主イエスに返していますので、イエスから受け
た油注ぎの霊を死の眠りにいる間しばらくお預けしますという意味です)
命は聖霊の所産の中でも最も尊いものであり、とりわけみ使いや人間は特別です。 それは神が行
う分身の術のようなもの、神にとっては専売特許のようなものです。 人体にあらゆるものを供給する
血は聖霊に似ていないでしょうか? それゆえこの血のシステムによって支えられている命は、人が
取ることが許されないもの、自分の命さえ自分のものではありません。 それが許されるのは、「友の
ために自分の命を犠牲にする」時にのみで、そのとき神からの権限が与えられます。
不完全な人類に関しては、この命に創世記3:6にあるリミッターが神によって付けられました。 「私
の霊が人に対していつまでも定めなく働くことはない。 彼はやはり肉であるからだ。 したがってそ
の日数は120年となる」。 これによって特例を除き人の最大寿命が120年に切られ、徐々にその
効力を表してゆきました。
神のみ子イエスが存在する前から聖霊は常に神と共に存在し、神にとって聖霊は、その組織、女、
助け手のような存在であり、イエスにとっては母と言えるかもしれません。 神はその様を模して創造
を始められました。 ヨハネ1:1はここからのことを記しています。 それで、被創造界のはじめ、主た
る者、神性を持つ者として独り子イエスをお造りになりました。 彼を通して創造されるすべてのもの
を彼に相続させ、彼に神の立場を味わってほしかったからです。
時に聖霊が人格さえ持っているかのような印象を与えるのは、聖霊は、例えとしてある人々がよく用
いる電気エネルギーのような単純なものではないからです。 むしろご意志を成し遂げるためにその
都度目的ごとに集められる自動で動く工具一式のようであり、燃料補給の必要はなく、そこには頭脳
や知恵も備わっています。
この人格の点で顕著なのが144000人に配られるイエスの霊です。 この霊は彼らすべてがイエス
の丈の高さに成長するまで、彼らの内面から責任をもって最後まで働きかけます。 ただし霊に従順
であるならば完成します。
この点で興味深いのが 「神は霊を量って与えたりはしない」というヨハネ3:34のバプテストのヨハ
ネの言葉です。 ここには聖霊の神髄がごく簡単に説明されています。 この意味を一番理解しやす
い例が使徒2:4の異言の賜物かもしれません。 かつてエホバがバベルの塔で言語を混乱させられ
た時、その目的は人を地の全面に散らすことでしたが、彼らはみな一式の異なる言語を突然話し始
めたのです。 そして西暦33年のペンテコステの際、今度は世界中に散った人々の中からご自分の
民を集め入れるために、それぞれ異なる一式の言語能力が弟子たちに与えられ、突然ペラペラと話
し始めたのです。 これが 「量って与えたりはしない」つまり目的に応じた能力を一式付与されると
いう聖霊の意味するところです。
これらのことから聖霊とは、単なる力、エネルギーなどではなく目的を完遂させる能力を持った力であ
ることが解ります。 それゆえ神は、全ての者の主、また王イエスには権限を量って与えたりはせず、
丸ごとそっくり、すべてをお与えになったのです。
また聖霊は、神のご意志と常に繋がっている手足また指、目であり鼻であり耳であり、分け与えられ
えた命に至っては、霊の所産とあったように、神が私たちの心まで読むことがおできになるのは、そ
のためです。
それで人類のすべてはその始まりから聖霊と全く無縁なわけではありませんでした。 神の存在を信
じない今日にあっても、人は極度の苦しみに遭遇すると神頼みをします。 実にそれは創世記4:16
の時から始まっていました。「その時エホバの名を呼び求めることが始まった」とあり、その内奥のと
ころから彼らは無意識のうちに神との繋がりを告白していたのです。(ローマ8:19~23参照)
それは命が聖霊の所産であることの紛れもない証拠です。 ヨハネ1:4ではこれを「光」とも表現して
います。
この、まるで端末生命体であるかのような人間と指令中枢母体生命であるかのような神とが繋がっ
た様は、ちょうどアメリカ政府が全世界のインターネットや通信網のすべてを監視できる状況や能力と
少し似ているかもしれません。 まさに彼らは神の立場にいるというわけです。 (神が人間を悪い意
味で常に監視しているという意味ではありません) それゆえにイエスはこのように述べて自分の立
場をよく理解しておられることを示されました。 マタイ12:31,32 「私に対するあらゆる罪は許され
ますが、聖霊に対する冒涜は許されない」と。 それで聖霊はあらゆる神に関する証拠を人々の前に
突き付けますので、それに関して決して言い逃れはできないのです。(使徒1:20 ヨハネ16:8)
昨日、2013年7月21日をもって私はエホバの証人の組織から離脱いたしました。 実は私には姉
がおりまして、これも油注がれた者であることを表明しております。 やはり内側から物事を正すこと
ができないこの組織の体質上、隠れた様で活動を続けるのも限界があり、以前から決意はしていま
したが、この道に入って20年を機に今度は外側から声を発してゆきたいと思います。 今はまだ始ま
りにすぎませんが、ゼカリヤ4:10 「小さなことの日」の預言に確信をもち、エホバに委ねてゆきたい
と思います。 汚物処理の目途が立ち次第、コメントのほうも完全に公開してゆきたいと思います。
どうかもうしばらくお待ちください。