バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

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10月22日 今日はヨハネ21:24以降を扱います。

 

さて、使徒ヨハネは自分が記した書の終わりにこのような言葉を残しました、「これが、これらの事について証しし、またこれらのことを書いた弟子であり、私たちは彼の証しが真実であることを知っている。実に、イエスの行なわれた事はほかにも多くあるが、仮にそれが事細かに記されるとすれば、世界そのものといえども、その書かれた巻き物を収めることはできないであろうと思う」。

ここで大変興味深いのは、中ほどに「私たちは」と記して、使徒ヨハネが自分を含めた当時の目撃証人たちを主体にして、「彼の」と、書を書いた自分を別の第三者に仕立て上げて語っている点です。ここから分るのは、使徒ヨハネにとってこの作者は、自分ではない別の自分であるということなのでしょう。それは霊による業なので、霊を除いた自分からすれば、別のだれかがやった業であり、聖書が「神の言葉」と言われる所以はそこにあります。

 

最後にヨハネは、イエスの行なわれたことをすべて事細かに巻き物に記すなら、広い世界であっても収納不可能であると語っています。これはどういう意味でしょう? ヨハネ自身は、世界がどれほど広いのかを知らなかったでしょうし、それが収納可能であるかの計算方法も知らなかったでしょう。では、単なる誇張表現だったのでしょうか? 

実際、イエスの地上での歩みをすべて文字に起こして、当時の形態の筆記作業を行ったとしても、おそらく、収納不可能になるほどにはかさばらないでしょう。事実、世界はこれまでの歴史やすべての書を十分に納めており、まだまだ余裕はあり余っています。したがって、彼が言うところの「事細かに」は、外面の事実のことではないでしょう。神の内面が無限であるように、イエスの内面はそれに準ずるはずであり、ヨハネは晩年になって、しだいにそれに気づくようになったのでしょう。それでも、まだまだ現状では足りていない自分がいる、いや、足りていないどころかまだ何もないのではないかと思うほどだったのでしょう。つまり、人の内面の進歩は、天井知らずの余白があるということです。それでこの言葉の最後を、「あろうと思う」で締めくくったのでしょう。彼にとって、霊によって導かれる自分は別人であり、さらに霊感によって操られている自分は「???????」だったのでしょう。

 

以前に公表していましたとおり、これにて私の四福音書に関する定期的な記事の更新は終了させていただきます。研究自体はこれからも続けていくつもりですが、毎週決まった曜日に記事をアップすることはしません。

私の敵たちは、私がだれかと接触することをことのほか恐れており、常に監視しております。私とは全く関係なく、接触もしていなくても、ただ趣味趣向が似通っている、あるいは、私がだれかを、あるいは何かを褒めるというだけでその対象は疑われ、制裁を受けるという事例もこれまで数多く発生しておりますので、私の側から積極的にだれかのところにお邪魔するような行為は致しません。もし神が望まれるなら、その時は分りませんが、それでも私の行く手を阻むなら、これまで同様、定めの時に、敵たちの上には大いなるのろいが追いつくことでしょう。