私は今「人型涙製造機」である。

昨晩は大変だった。一応寝付けはするのだが、二時間おきに目が覚める。夜中3時に目覚めたときは、4時過ぎまで寝付けず苦労した。照明をつけて、e-bookJapanの無料漫画をスマホで読み、眠くなるのを待った。それでも眠れない時は「ママー」と呻きながら、細長い猫の抱き枕に抱き着いていた。いい年して恥ずかしい限りであるが、71歳の母を亡くすと息子はそんな奇行をする羽目になる。

昨年8月、私の退院直後、私のメンタルは崩壊し鬱っぽかったが、朝の散歩と休養で一週間ほどでだいぶ良くなった。今回もメンタルが正常に戻るまでは一週間はかかるだろう。まだ今は、母の使っていた物を見るだけで涙が出てくる。

今日は午前中は部屋の片づけを行う。明日月曜の燃えるゴミの日に、母のため込んだ物品を捨てるためである。途中、自治会長のおじいさんが弔問に訪れ、自治会として香典をいただく。葬式には出席しないとのことだが、きちんと礼装をされていた。こちらは短パンTシャツで汗みずくなので、申し訳なかった。11時ごろ早めに昼食を食べ、12時前には斎場に入る。参加者は私と父と、古くからの付き合いのある隣二軒のおばあさん2名の計4名である。こじんまりした家族葬なので、30分もかからず終わる。寺を呼んでいないのでお経は無い。喪主の挨拶も無い。食事も無い。母の希望通り、熊のぬいぐるみ「ハチ」と実母からの手紙を入れた箱を棺に納め、花束を棺桶内に敷き詰めると、すぐ出棺となった。霊柩車を追尾しながら、私と父は自家用車で勝坂の斎場に向かう。

焼き場の最期のお別れで、私と父は大泣きした。私の眼鏡には大粒の水滴がついた。斎場にはきれいな日本庭園が造りこまれており、荒んだ心が少しだけ救われた。粋な設計に感謝したい。

遺影は5/1に初の婦人科の診察に行く直前に私が自宅で撮った写真を用いた。祖母の葬式の時、遺影に使う写真が無くて困ったから、念のためによそ行きの服装をしている時にスマホで母を撮っておいたのだ。でもこの時点では「帰宅できるし長丁場になるだろう・・」などとのんきなことを書いているし、まさか本当に遺影に使うことになるとは思っていなかった。退院後、写真を撮るチャンスくらいいくらでもあるだろう・・と思っていた。遺影に使うために撮ったんじゃない写真を、遺影に使わなきゃならないのが辛かった。こんな写真役立たせたくなかった。

焼き場で1時間半くらい待ち、骨を拾う。まだ71歳だったせいか、骨は結構立派に残っていた。骨粗鬆症の人だと、骨がスカスカになるのだそうだ。職員は慣れた手つきで仕事をこなしているが、よくこんな過酷な仕事を平気でこなせるものだと思う。

帰り際、職員さんが自家用車までついてきて、「骨壺を自家用車の椅子に乗せただけだと、勝坂の下り坂で落ちます」と言い、シートベルトを締めた私の膝の上に骨壺をのせた。私は骨壺を抱きかかえたまま帰宅した。車の中でも、帰宅してからも私は泣いていた。汗と涙で水分がどんどん外に出ていく。「帰りたい」とずっと言っていた母が、やっと帰ってきた。納骨するまでは私の寝室兼書斎に置いておこうと思う。去年の夏の私の退院以降、私は母の隣で寝ていた。冬になっても3月くらいまでは、同じ部屋で母と寝ていた。だから多分大丈夫だと思うが、きちんと睡眠がとれるかどうかは分からない。あまりパソコンに向かってブログを書いていると、頭がくらくらするので、今日はこれくらいにしておく。

 

防府市斎場には立派な庭園がいくつかあるが、そのうちの一つだけ撮影しました。

 

 

本日の晩御飯:お隣のおばあさんにいただいた焼きおこわ(鶏肉かな?)とレンジでチンするとんかつ

葬式当日に夕食を用意する必要がなくて助かった。ただ、あまり食欲がなく、おこわは半分くらいしか食べられなかった。