母が死んだ。

私は朝6時に起床。父は病院に付き添いなので、私一人で朝ごはんを食べ、二階のタンスを一階に下ろしたりする。丁度洗濯の最中、6/27のブログに出てきたいとこから電話がある。父の兄が早朝三時に亡くなったという知らせだった。洗濯ものを干し終えて、一階のキッチンで晩御飯のハヤシライスの食材を準備中であった。丁度フライパンに野菜と肉をぶち込んだところで、今度は医療センターから電話がかかってきた。「●階△病棟の看護師です、すぐに病院に来てください。心臓が弱っています。いまご主人(父のこと)は帰られたんですが・・」と言われた。こりゃ大変だ、と思ったら、その矢先父が自動車で帰ってきた。すぐさま父に伝え、父と一緒に病院に向かう。

病室に着くと母はもう動かないし、口も半開きで、まばたきもしていなかった。看護師が飛んできて、もう心臓は動いていません・・という。母の手を握るとまだ暖かい。「来たよ、ママ頑張ったね」、などと父と一緒に一生懸命声をかけると母の目から涙がこぼれた。心臓も呼吸も止まっていても、多分ほんの数秒だけは脳と聴覚だけは動いていたようである。聴覚だけは最後まで残るというのをYouTubeの動画で見たことがあった。涙の会話である。私もずっと泣いていた。父がむせび泣くところを初めて見た。朝8時30分の出来事だった。医師が来て瞳孔の反射とか脈などを確認した。

医師には急遽来ていただいた。ありがたい限りである。おそらくミダゾラムという鎮静剤が無ければもう何日かは生きられたかもしれないが、塗炭の苦しみの中での最期よりはマシだったのだろう。肺のリンパ管に転移したガンは進行が速かった。ただ、死亡診断書を見ると死因は直腸がんとなっていた。

7月2日までは普通にラインも来ていたのだが、それ以降はもうラインが来ていない。もう私と業務連絡以外でラインをする人はいないだろう。母とのこれまでのラインを見ていると涙が出てきて、息苦しくなる。私もだいぶメンタルがやられているようだ。

自宅近くの葬儀屋に電話し、遺体を引き取りに来てもらう。直接葬式の会場に向かい、霊柩車をどうするかとか棺桶の種類をどうするか、とかを決める。費用は四十数万円かかる予定である。また、防府市から5万円の補助が出ると聞いて驚く。葬式会場から歩いてすぐのガストで昼食にピザを食べたら、普段食べ慣れないものを食べたせいか気持ち悪くなった。これはメンタルが正常なときの食べ物だね。配膳ロボが普通に稼働していて驚く。

親族と、古い付き合いの隣二軒だけには母の死を伝えた。今ブログを書いていると、「苦しい苦しい」と言いながらゼイゼイ呼吸する母の姿が目に浮かんできて、つらくなる。暑いせいもあって、なんだか息が苦しくなる。クーラーをつけたら若干マシになったが、私は今日無事寝られるだろうか。隣のガンサバイバーおばあさんが弔問に訪れる。かやくご飯をいただいた。明日の晩御飯にします。ありがとうございます。

葬儀場の部屋には立派なベッドが備え付けられていて宿泊もできるそうだが、私は自宅で寝ることにする。常時メガネをかけていた母が、棺桶内では眼鏡をかけていないので、とてもへんな感じがする。小規模な家族葬になる。通夜はせず、明日簡単な葬式だけ行う。明日は涙をぬぐうハンカチを持って行こうと思う。シャツの袖で拭くわけにはいかない。

父も高齢なので、私はそう遠くない未来孤独になることが確定してしまった。30代のうちは元気だったし、親も元気だったし、一人で生きて行くことに何の不安も無かった。私は来週44歳になるが、急に人恋しくなった。しかし、今更遅いのだろう。母も手遅れだったが、私も手遅れなのである。仕事も無く(本当はたまにある)、友達もおらず、家族もおらず、救いが無い。孤独死まっしぐらである。

母のスマホを自宅に持ち帰って、母のスマホにくくり付けてあったタッチペンの「ペン先」がなくなっていることに初めて気づいた。母はスマホを指先で操作せず、いつもペンで操作していた。気づいてあげられなかったことが心残りである。

 

本日の塾長飯:さつま芋と豚肉のハヤシライス(今日はヨシケイの食材は無いので、自力でハヤシライスを作った。朝病院から呼び出しがある直前まで準備をしていた。急遽食材だけ冷蔵庫に突っ込み、病院に向かい、帰宅後食材を炒めた。芋は母が備蓄していたさつま芋で、肉は豚肉だったので、あまりおいしくはなかった。父とこの二日間の母のつらい状況を話しながら食べた。泣きながら食べた。元気を取り戻してこの母のいない世界に慣れるために、頑張って食べた。)