睡眠の質が良くなかったせいか、今日はいまいち頭の働きが悪い。それでも朝父に便乗して病院に赴く。母は肺が悪化しているようで、もう呼吸がゼイゼイで苦しそうで、見ているこちらも辛い。日に日に悪くなる。尿管にステントを入れたせいか、尿がものすごく赤い。ほぼ血の色である。昨日尿が出なくなったそうで、おしっこはバッグ式(正式名称は分からない。)になっている。

母は昨晩、息苦しくてほぼ寝付けなかったようで、「今朝会えるかどうか不安だった」と言っていた。もう声も震えている。若干パニック気味だが、夜の暗闇の個室で一人で死の恐怖と戦っているのだ。そりゃおかしくもなるさ。もう最期を悟ったのか、私と父に「出会えてよかった‥ありがとう・・」と泣きながら言う。私はもっと生きることを考えてよ・・と涙ぐみながら返答する。

突然、私の幼少期に私に習い事をさせ過ぎて辛い思いをさせた、悪かったねなどと言いだす。過去の私の教育方針に少々罪悪感を感じているようだ。こんな話は何度も既にしているのだが、この期に及んでまだそんな話をするとは全く予想外だった。

確かに、母は自分が幼少期にして欲しかったことを全部私にさせたみたいで、私の小学校低学年時代の習い事は多かった。くもん、ピアノ、スイミング、習字、スケートなどをさせられたように思う。でも、辛いと思ったことは結局中学や高校になって選んでいないし、幼少期のピアノ教育は人生に良い影響を与えた。ピアノは集中力と記憶力を鍛える最強のツールだし、意外と性に合っていた。才能の発掘にはいろんなことをさせてみるのが良いし、あれが幼少期の最良の教育なんだよ・・と力説する。体を動かす系の習い事は全くダメだったが、ピアノだけは当たりだったのだ。もちろん公文式がお勉強の礎なのは言うまでもない。公文式をやってなかったらその後の数学科進学は無かっただろう。意外と習字が役に立っているのが面白い。読める字を素早くかける才能が無かったら、手書きの解説なんて販売できない。

私のそんな話を聞いたら安心したようで、「良かった」と泣きながら言う。母が我々に夜一緒に付き添うことを懇願するので、結局父は今晩病院に泊まり込むことになった。

私は10時半のバスで、父は16時ころ一旦帰宅する。私は母の兄に電話をする。療養費用を援助してくれるとのことである。ありがたいことである。ものすごく助かる。

夕食直前、私の携帯に医療センターからの着信履歴があることに気づいた。病院からの着信履歴は心臓に悪い。折り返しかけ直すと、病棟の担当看護師が出る。独特のお声と口調なので一瞬で分かる。他の看護師は、顔も名前も分からない。電話の内容は、夕方医師から鎮静剤の説明があるので、息子である私も説明に同席してはどうかという提案だった。もちろんOKの返事をした。そのため、夕食をとり、シャワーを浴び、18時過ぎにまた病院に父と赴く。

医師からは鎮静剤の副作用によって呼吸が止まるリスクがあることを説明される。私は茫然自失としていた。父ばかりしゃべり、私が押し黙っていると、担当看護師が気を利かせて「息子さんは質問無いですか?」と私に話を振ってくれた。私は、Xデイはいつか予想できるか、とか、手の施しようがなく医療の限界を感じたとか、尿に血が混じるのはなんなのか、などと言った気がする。最長で1か月の余命だが、それは週単位かもしれないし、日単位かもしれない・・大腸が原発の癌なのは間違いないが、転移した肺のリンパ管の癌は進行が速く、この一か月で一気に悪化してしまった・・などとと言われる。

不思議と悲しいという感じではなく、いろいろありすぎて感情がマヒしてしまい、気持ちをどこに持って行ったらよいか分からない謎な状況である。鎮静剤をやってもやらなくても、すぐ死が迫っている状況には救いがない。私は最終の19時半発のバスに乗り駅に出て、二度目の帰宅をした。私も父と一緒に病院に泊まることも考えたし用意もしていったのだが、私は帰宅することにした。

私は独身なので、私が死ぬときは看取る家族が誰もいないのだな・・
 

本日の晩御飯:野菜とスープワンタン(肝心のワンタンがおいしくなかった)、味付け楽々!卵チャーハン