1. 昨日の晩、大雨の中、野良猫がニャーニャー鳴いていた。我が家の自家用車の下あたりから鳴き声が聞こえてくる。呼びかけても日本語は通じないし、姿を現さない。猫が鳴くたびに私もだみ声で「ニュァー」と叫んでみると、不思議と鳴くのが止む。猫は耳はいいのか、きちんと聞こえているようである。雨宿りにうちの自動車が役に立ったみたいである。この猫は何と言っているのか分からないが、「助けてくれ」と言っているように聞こえて辛かった。私が布団に入ってからもずっと鳴いていた。猫を助けるわけにもいかないし、餌も持っていないし、関わりようがない。朝にはいなくなっていた。

2. 朝九時過ぎにクリーンセンターに電話をし、大型粗大ごみの戸別収集を依頼した。今日は大雨のせいでヨシケイの配達が遅れ、結局12時過ぎに配達に来た。高速道路が通行止めだったので、きっとその影響なのだろう。雨の日も雪の日も毎日配達しなくてはならない仕事は、とても大変で過酷だな‥と思う。

3. 今日も父だけ病院に行く。私は行かない。勉強しつつIHクッキングヒーターの掃除などをした。最小二乗法により、仮定を入れると、残差が足してゼロになることを学ぶ。小郡の親戚から電話が来たが私は出なかった。夜父が電話するからである。

 

父帰宅後、一緒に私の作った食事をとったら、父が重い口を開け、今日医師から聞いたことを話し始めた。
・肺のCTをとったら、下半分くらいが真っ白だった(正常ならば肺全体は黒く写るそうだ)
・あと余命一か月くらい
・呼吸ができなくなったら苦しみを緩和するため、睡眠剤を入れて眠らせることになる。
・耳鼻科にいったら中耳炎だった

6月19日に市役所に行って障碍者手帳の申請をしたとき、手帳の交付まで2か月かかりますと言われた。このとき、刹那に「あと二か月ももつのかなぁ・・」と思ったのだが、悪い予感が的中してしまった。入院してすぐ、四人部屋から個室への変更希望が通った時も、「やっぱりかなり悪いのかなぁ・・」と思ったものである。また、6月7日に看護師長に話しかけられたときも、「やっぱりもう助からないのか・・」と思ったものである。塩酸モルヒネなんて鎮痛剤を入れても、痛みが引かないし、思い当たる節が数々あるのだ。看護師の対応も、私が入院していた時となんか違う。病棟が違うから当たり前と言えば当たり前だが。

それに6月29日(土曜日)、30日(日曜日)と連続で私も母の病室を訪ねているが、素人目にも悪くなっていることが分かった。血中酸素濃度が低く酸素吸入をしているが、昨日「息苦しい」と言っていた。やはり肺が良くないのは昨日の時点で薄々理解していた。リハビリもできないし、食欲も湧かないし、寝たきり状態なので抗がん剤の治療も開始できない。他の癌サバイバーのブログを読んでも、こんな状態の人はいない。もっと普通に食事はするし、通院で治療を継続している。おそらく母の場合は、入院時に既に「手遅れ」だったのだろう。

ある程度母の死を覚悟はしていたが、「一か月」という具体的な期間を突き付けられて、かなり面食らっている。呼吸が苦しい感じがしたが、風呂に入ったらちょっと落ち着いた。これまでは母が帰ってくることを前提に部屋の片づけ作業を進めていたが、もう母は帰宅できないことが確定してしまったので、明日からは父との二人暮らしを想定した部屋の片づけ作業に入らねばならない。

母の死に救いはない。誰も私を助けられない。私がひたすら耐えて、順応してゆくしかない。こういう辛い状況を共有してくれるのは家族だけであるが、私の作った家族はいないのが寂しい。普段独身を謳歌しておきながら、困った時だけ助けを求めるなんて、虫がいいにもほどがある。今日は寝られるだろうか。昨晩の野良猫のように助けを求めながら寝よう。

ちなにみ母の家系の人たちはこれまで皆8月に死んでいる。母もそうなりそうなので、運命を感じる。呪いなのかもしれない。ただ、母は幼少期に実母をなくしている経験があるせいか、病院嫌いだった。病院にかかるのが遅れたのは、自分で運命を選択したようにしか見えない。
 

本日の塾長飯:鶏肉のガーリックチーズ丼、蒸しカボチャのオクラドレッシングサラダ(味付けに酢が指定されていたのだが、我が家には酢が無かったことを思い出した。なぜか母は酢を料理に使うのを嫌っていたのだ。)