2022年11月3日(木・祝)、紅葉ドライブの記事の続きです。
国道290号線を走り、魚沼市渋川にて、国道252号線へと入り、
新潟県魚沼市守門にある「目黒邸」を久しぶりに訪問してみました。
以前、訪問したのが、20代の時だったので、
ほぼ30年ぶりですね。
「目黒邸」の説明書きです。重要文化財に指定されています。
目黒家の邸宅「目黒邸」です。大きな邸宅です。
目黒家は戦国大名であった会津の芦名氏に仕え、
伊達政宗との戦の後、
天正18(1590)年、越後魚沼の広瀬郷の地で帰農したと伝えられ、
中世武士の系譜をひく豪農です。
目黒家の初代、善右衛門は、
江戸時代初期の慶長年間(1610年代)に、
上条郷15ヶ村の肝煎り役を勤めていました。
只見川の上流で、
寛永18(1614)年、銀山が発見され、
これを端に発した会津と越後の国境論争では、
正保2(1645)年、2代、彦兵衛が越後の代表として江戸に赴き、
大老酒井忠勝ら幕府標定所の幕閣に早期裁断を訴えるなど、
大庄屋に並ぶ働きをしています。
魚沼地方が天領であった元禄年間(1690年代)、
目黒家は堀之内組のうち上条郷25ヶ村の庄屋の惣代、中庄屋になっています。
江戸時代中期の宝暦5(1755)年、
糸魚川藩領須原村の庄屋であった8代、五郎助は、
割元役を命じられました。
以後、代々、割元庄屋となり、
苗字帯刀を許され、近郷の割元庄屋とともに、
糸魚川藩魚沼領23ヶ村の大庄屋職を勤め、
明治初年に至っています。
目黒家の記録によれば、
安永年間(1770年代)には、所持高140石余、
造酒200石、奉公人20人を数えたと伝えられています。
15代、徳松は、明治13(1880)年に新潟県議会議員に選ばれ、
明治25(1892)年には、帝国議会の衆議院議員に選出されています。
16代、孝平も、明治45(1912)年に衆議院議員に当選、大正時代に中央政界で活躍しました。
豪農目黒家の経営規模は、
大正9(1920)年には、2郡6ヶ村に及び、
農地165町歩、小作人325人だったそうです。
というように目黒家は、越後の豪農であり、
歴史のある家系となっています。
邸宅の中も広く、豪雪地帯の農家の特徴を備えています。
庭です。池泉庭園です。
では!