昨年秋に前回「人生とは」という文章を書きましたが、

その時は鈴木大拙禅師と川元顧山画伯の文章を抜粋しながらの文でありましたが、その時言い足りなかったこと、を書きたいと思います。

 

「人生とは要するに生まれ、食い、飲み、働き、眠り、結婚をし、子供を生み、終に誰も知らない所に逝ってしまう」ことだ。そう考えるとこの人生を送る位簡単なことはないようである。が、此の種の、神を絶対に信頼する以外に望みを抱かず悔いを残さず、ありのままの、というより寧ろ神に心酔せる生活を、送り得る者が果たして幾人かありえようか。」という文章に感動して、引用させてもらったのだが、前回私はその後の文章になんとなく方向を見失ってしまっていたことを、ここに書き足したいと思った次第です。

 

我々は生まれた。そして生きている。やがて死ぬ存在であることを皆知っている。

これは般若心経のいうところ色即是空、空即是色、である。我々はこの循環のなかの一粒の存在で、生れてきたことが確かなら、それはもう完全な神というべき流れに合流していることは確かなことである。

だったら、我々は完全に救われている。

鎌倉仏教以来浄土系の教えに、法然、親鸞を信じて「南無阿弥陀仏」の六字のショウモンを信じれば必ず救われるといった教え、の出処はここにある。すべての人はすでに救われている。此のことを解った法然、親鸞を信じることにより、安心を頂けることは道理である。

 

般若心経の最後の呪  羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆可

 

の現代訳                     山田無文禅師 訳

救われた。救われた。完全に救われた。みんな完全に救われた。ここが御浄土だった。