茶の湯とは只湯を沸かし茶を点てて、呑むばかりなるものと知るべし。

千利休の句である。

鈴木大拙禅師は著書”禅と日本文化”の中、茶道と禅について書かれた中で次のように書いておられる。

 

この句はどこまでも簡単である。人生とは要するに生まれて、食い、飲み、働き、眠り、結婚し、子供を生み、終に誰も知らない所に逝ってしまうことだ。さう考えると此人生を送る位簡単なことはないようである。が、此種の、神を絶対に信頼する以外に望みを抱かず悔いを残さず、ありのままの、というより寧ろ神に心酔せる生活を、送り得る者が果たして幾人かありえようか。

 

又、川元顧山画伯は   人生について(二)    (研究誌童心第2号 1958年)

 

人生が解ったようだ。

考えれば人生は解らなくなる。

人生はありふれている。

人生は花のようでもあり、雲のようでもあり月のようでもある。

湧いては消え、湧いては消えする微笑のようでもある。或いは時に流れては散り流れては散りする悦びのようでも、哀憐や愉悦のようでもある。

人生は実に尊い

人生に私は無い

私があれば人生はむずかしくなる。私のある人生は実に苦しい。悩ましく憤ろしい。悲しく、憂はしい。、、、、、、

それは無限の人生が一か所に凝め込まれるからである。一局処に滞るからである。

その為に人生が不自由になるのである。

懊悩とは肉片の中に、或いは、骨片の中に圧縮された無限の思想の事である。

 

上のお二方の人生について書いておられる処を並べて書いてみた。

 

確かに大方の人間にとっては人生はそう簡単に言われても、ついてゆけない..複雑で、悩ましくも、苦しくも、

時には嬉しい時もあろうが、誰の生涯も課題満載、でも希望も持って目的にまい進する明るさもあるかも、

などと思いながら、その背負った荷物に耐え、努力をし、生き続けているのが大半の人間ではないかと思う。もっとも年をとり、希望も夢も果たせ切れずに残りの時間が迫ってきた者の中には諦観が生まれ、それなりにゆったりと過ごせるようになる者も可成りあるかもしれないが、、、。

 

しかし我々人間は否応も無く生まれ、育てられ生きてきたもので本来選択の余地なんかなかった。隣人を観て比べたりして、憧れたり嫉妬したりするけれど、その隣の人さえ、自分が選んだわけでもなく、偶然、隣人となり、友人か、競争相手か、羨みの対象かの存在となっている訳で、、、、、。

その流れでゆけば我々は、否応も無く最期までも導かれて行くしかない存在かもしれないのだが、、、、。

 

キリストも言っておられるが「空を飛ぶ鳥を見よ。種も蒔かず、刈り入れもせず倉にも納めずも、天の父は養って下さる  また野の花は働きもせず、紡ぎもしない。しかし栄華を極めたソロモンさえこの花一輪ほどにも着飾ってはいず、今日生えて、明日炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。

 

鈴木大拙禅師の文章の「神を絶対に信頼する以外に望みを抱かず悔いを残さず、ありのままの、というより寧ろ神に心酔せる生活を、送り得る者が果たして幾人かありえようか」には惚れ惚れして惹きつけられる調子があって、私がこの文を書き始めたきっかけになったのだが、特に素晴らしい響きを感じる。

 

でも、幾人も無い。ということだ。大半の人々はそんなに神に心酔し、全てを託せる心境にない、ということだけれど、、。

 

川元顧山画伯の文章は詩的でもあるけれど、幾分説明してくださっているように思う。

つまりは、小我の私を抜け、大我の我に気付けということだ。

 

しかし、いくら言われてもそこが解らない、頭で知るのではなく、悟るというか自分で納得をしたい

それが大方の人間の気持ちであろう。解る、認識すると言うことは誰にでも出来る。でも大我に目覚めると言うことは自他の認識の世界ではわからない。