高市総理は靖国参拝するのか?
「終わらない戦後」と靖国参拝ーー日本政治の深層を映し出す鏡
8月15日の終戦記念日を前にして、首相が靖国神社を参拝するのか否か――この問いは、例年のことながら、日本政治の深層を映し出す鏡である。
8月6日の広島、9日の長崎の両平和記念式典のそれぞれ出席するとの発表があったが靖国参拝についてはなお明言が避けられている。
総理就任を境に、春秋の例大祭では参拝を二回見送って、玉串奉納にとどめてきた経緯を踏まえれば、その判断は明らかだろう。
かつては閣僚として継続してきた参拝も、首相という立場においては全く異なる意味を帯びる。個人の信条としての行為が、瞬時に国家意思として外部へ投射されるからである。
ここに、靖国参拝が抱える本質的な問題がある。本来は戦没者への追悼という内政的行為であるはずのものが、すでに外交問題として固定化されているという現実である。
個人的には日本が敗戦国としての負い目をいつ払拭できるのかはこの靖国参拝が筋目となる行為だと期待している。
とりわけ中国との関係が捗々しくない現状において、靖国参拝を強行すれば火を見るより明らかな、中国や韓国および北朝鮮など周辺国からも非難声明や対抗措置が繰り出されることを覚悟しなければならない。また、米国や欧州、ロシアおよび国連など国際機関からの批判を受けることも十分にあり得る。現時点で内閣支持率も政権発足以来の低迷が続いている状況ではさらに複雑だ。
八方塞がりの状況での強行参拝は得策ではないと、総理周辺でも懸念され、制止せざるを得ないのは必然と思われる。
しかし、この選択は同時に、靖国問題が依然として外交問題であり続けることを自ら認めることにもつながる。これまで「本来外交問題にすべきではない」との持論を封印してしまう矛盾を抱えることになる。
もし、予想に反して、電撃的に靖国神社を参拝したならば、事態はどう推移するだろうか。
短期的には、事態はむしろ明瞭である。周辺諸国からの強い反発、報道の過熱、国内外からの批判、そして支持率のさらなる低下。とりわけ国内においては、一部の支持層が評価する一方で、多くの国民にとっては、その意義以上に政治的混乱や対外摩擦として受け止められる可能性が高い。結果として、政権に対する風当たりは一層強まるであろう。
こうした状況を踏まえれば、参拝回避という判断は合理的であり、現実政治の文脈においては首肯し得る。
だが、それでもなお残る問いがある。すなわち、日本はいつまでこの構図の中にとどまり続けるのかという問題である。
近年の皇室典範改正をめぐる議論は、この点に一つの示唆を与えている。男系男子の確保という方向性は、日本の歴史的連続性を維持しようとする国家意思の表れにほかならない。しかし、その議論はしばしば男尊女卑という表層的な批判に回収され、本来問われるべき歴史観や国家観の共有には十分につながっていない。
ここには、靖国参拝問題と通底する構造が見て取れる。すなわち、国家の根幹に関わる問題であっても、その意義が十分に言語化されなければ、対外的反応やメディアの枠組みによって容易に意味が変質してしまうという現実である。
であるならば、電撃的な靖国参拝という選択は、単なる外交的行為としてではなく、別の側面からも捉え得る。それは、固定化した認識に揺さぶりをかけ、国民の意識に問いを突きつける契機、いわば「カンフル剤」としての機能である。
無論、その代償は小さくない。国際的批判や国内の混乱を伴うことは避け難い。しかし、皇室典範の議論が示すように、いかに重要な問題であっても、その意義が共有されなければ、単なる対立の材料に終始する。であればこそ、象徴的行為によってあえて論点を可視化し、議論を喚起するという選択も、全く否定されるべきものではないだろう。
できれば、参拝の後に記者会見を開き、『真の戦後レジームからの脱却宣言』を総理談話として、堂々と宣明してほしいところだ。
私は本当の終戦を迎えるために必要なステップ儀式だと考える。
その上で今上陛下がなに一つ政治的な憂慮をぜずに粛々と参拝できる環境整備が一歩進むことにもなる。
結局のところ、日本が直面しているのは、敗戦という事実そのものではなく、それをどのように歴史的に位置づけ、国家として捉えていかに語り続けるのかという問題である。
GHQの占領政策に導かれた卑屈な贖罪意識ではなく、当時の世界的は植民地主義を十分反省した上での愛国精神としっかりとした国家観、歴史観をもつ青少年を育む教育に繋げる努力を惜しまない。
それが今生きる世代が担う責任でもあると思うのだ。
靖国参拝をめぐる逡巡は、その縮図である。
八月十五日が巡るたびに繰り返されるこの問いに、日本はなお明確な答えを持ち得ていない。そのこと自体が、いまだ戦後が終わっていないことの証左なのかもしれない。

