おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って書いています。書き間違いがあるかも知れません。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどなどの意味です)。

 空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろに書いてあります。それが基本で、全てです。そこだけでも一読をお願いしたします。無料です。(プロフェール参照)

 過去からのいろいろな瞑想法もありまして、それはそれで良いのですけれども、それらの元は、真っ透明な空や空性(くうやくうせい)です。空気体瞑想は、今、ここ、身の回りにある透明な空気を方便として、各種瞑想法の元である真っ透明な空や空性へ入ろうとする瞑想法です。もっとも直接的な瞑想法と言えます。

 時代は、この空や空性を明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われること」はありません。今を超えて行きましょう。その後の行動は、その方の意識レベルと器次第です(←これが、主なる神様の言われているところの「多様性」の真の意味です。人間の方から見ると、抽象的です。具体化をすると壁になります。神の言葉は、人間の意識の向上が目的です)。

 地球は、太陽系の惑星と共に天の川銀河の中心へと近づいていて、エネルギー価を上げています。その地球上にいる人間の肉体もスピリチャル(精神)も、エネルギー価を上げながら常に進化して行くというのが、生命の本筋です。空気体瞑想をして、その本筋の流れに乗りましょう。

 魂はエネルギー価が上がることを好むように出来ています。それで、生と死と消滅と永遠を越えることになり、進化と開放と自由への道に繋がるのです。←これが意識の向上です。

 主なる神様が意図するところの自由や自由感とは、客観的に観ると、「自由」と「支配」が丸ごと融合していて・・・それは、進化や天然のダルマ(法則)によって、融合したものなのです。←ここは重要です。

 自分の中心に「透明な空」を意識して、勇気を出して進みましょう。

 「空や空性」と「深層意識の一番深い所」との共鳴率を、10段階とするならば、共鳴率が、5,1以上あれば善性です。4,9以下なら悪性です。これが、[人生ドラマ]、その善悪の基準です。

 その上で、この世とあの世のエネルギー反応のシステムは、あの世の天国と地獄を含めて、本質的なところでの勧善懲悪なのです。下手な理屈ではありません。

 そういう仕組みですので、自分の中に空性を増やしましょう。自他の進化に対する貢献に繋がります。(無相の)徳を積むことになります。

 

 ちむどんどん、見ていますか?。

 1978年(昭和53年)4月だ。ノブコは、フォンターナに勤めて6年になる。雑誌のインタビューなどを受けて、絶好調だ。美味しいのもがあれば、いつも絶好調だ。インタビュアーに「結婚する気はありません」などと答えている。オーナーの房子さんは、ずっと独身だったのかな?。

 和彦は、沖縄のことをいろいろと記事にしたいらしい。会社の学芸部では、エース記者と呼ばれているようだ。

 沖縄では、良子が子供の晴美と比嘉家で、ずっと暮らしている。亭主のひろおが、ときどき訪ねて来るようだ。二人の成り行きに進歩はない感じだ。

 良子は、母になって強くなってしまった。学校で、生徒指導をガチガチとやっている。自分は正しいと思いたいんだろうね。不安なんだね。亭主のひろお君は、その良子の深い所が解からないんだね。

 何かが不具合な時の女の強気は、気持ちの裏を返すと、不安な何かがあるからだろうと思うけどね。女としては、自分の空っぽさ加減を見せたくないのかもね。そのこと自体も、勘違いなんだけどね。言ってしまえば、空っぽでいいんだけど、自分の空っぽを垣間見てしまうと、不安になるのが女という生き物なんだろうね。男は、空っぽになっても、「俺は、よく頑張っている」と自分を哀れに思うことなどで、気持ちを調整するみたいだね。

 女の身体についているのは、「穴」だからね。そこを埋めてもらわないといけないと、女自身が、本能的に思っているんだろうね。穴を好きな男に埋めてもらうと、性的な快楽もあるし、女という生き物はやめられないやな。女からしてみれば、その快楽については、アホな男でも、それなりに喜んでくれるから、自分に価値があるように思えるしね。

 ただね、アホな男は責任は取らないし、取れもしなけど、お互いにある、その瞬間だけは、なんか、いいんだろうね。多くの人はそうだね。

 アホな男のケンシュウは、まだ養豚場に勤めているようだ。相変わらずだ。

 給料が入った日に、元から頭が空っぽのケンシュウのところへ、つぶらな瞳で「アタシを助けて」みたいな眼をした美人が来た。その女性は営業をしていて、石鹸などを売りに来たようだ。

 ケンシュウは、その美人の「穴」を埋めたくて(=笑顔が見たくて)、石鹸をあるだけ全部買って、給料の全部を渡した。「釣は、要らねーよ」などとほざいている。

 ケンシュウには、その女性が営業であちこちを廻り、そこでの辛い仕打ちにもめげないで、でも、こころに穴の開いている美人に見えたんだろうね。彼は、その女性の体に付いている全部の「穴」を、ケンシュウという「男」として、埋めてやろうとしているのかもね。埋めたくなるよなぁー。なので、取りあえず、給料の全部というお金で、埋めてみたんだろうね。あはははは。(綺麗に書き過ぎたかなぁ。・・でもないかぁ。)

 自分が空っぽだということに気づいていないケンシュウは、迷いなくお金を渡して、やり切って空っぽに成ったことについて、「俺は満足だ」と思っているのかも知れないね。

 まー、でも、究極のところまで考えると、男はそういう生き物のところが有るよね。神風特攻隊なんかもそうだよね。国と家族の為にいろいろと考えて、振り切って、一人で軍艦へ突っ込めるんだからね。

 悪い意味でいい加減に頭が働く人間は、振り切れないように注意をしているわけだから、まだ、究極のところまで行ったことがないんだろうね。俺は、そう思うね。死んでも再生するか、正しく転生するなどして、生き返ってくる奴でないと、使い物にならないんだよね。

 ケンシュウの場合は、頭の出来が、元々からアホで空っぽなわけだから、究極も何もないんだろうけど、美人の心の穴でも美人の身体の穴でも、穴があったら埋めたいと感じてしまうんだろうね。「もうー、給料なんて、全部、上げちゃう」という感じなんだろうね。女もそれを望んで、優しいいい人と(「女としては、シメシメ、またわ、頑張っている』)喜ぶんだろうね。

 だけど、ケンシュウよ、こりゃー、空っぽ同士でダメだろうね。何処まで行っても努力が無になると言うヤツだね。アイドルとヲタ族みたいなもんだね。アイドルが結婚したら人気が落ちるという分だね。美人営業さんもケンシュウも、丁度いい具合にアホで空っぽなんだね。その人たちに対して、「身も心も自立して幸せになれよ」などと言っても、その事自体までもが、空っぽで、「馬の耳に念仏」だね。

 とどのつまり、まとめると、何を言ってもアホで空っぽで、だけど、「俺の空」を生きて、一番星に成りたいのがケンシュウなんだね。難しいね。

 えーーとーー、ジブリの「紅の豚」にあるセリフ、「飛べない豚はただの豚」だな。ただの豚は、食肉として誰かに食われて終わり、の豚肉だね。

 まー、おんなじ食われるんなら、シェフ・ノブコに、美味しく調理をしてもらって、お客としてきた美人に食べられる豚肉がいいさぁー。

 アホで空っぽな男に出来ることは、それでいいじゃん。笑って、食われてやることさぁーーー、じんせいさぁー。。。

 ケンシュウ、、、お前は間違っていない。風に吹かれる男の人生さぁーー。一番星は、見上げるだけさぁ。

 その一番星に、願いをかけて祈って見上げているのが、心と体に「穴」のある女さぁ。そりゃー、男も女も、空っぽと恋が癖になるさぁー。

 だから、世間の人は、毎回のように、同じような恋愛を夢見て、幸せな結婚を望んでいるの、さぁー。

 鶴見のあまゆでは、サトルがノブコをデートに誘おうとしている。が、ノブコは、それに気づかないようだ。と言うか、無意識に避けている感じだ。

 サトルは、独立を目前にしていて、意気盛に商売をしているようだ。

 和彦とアイは、付き合っていたのだが、愛の両親から早く結婚するようにと言われていて、二人はケツを煽られているようだ。二人とも、仕事が忙しいなどと言いながら、なかなか煮え切らない様子だ。

 和彦とアイは、一応、心が自立して、しかも、心にもそれほどの欠けたところが無い感じだから、結婚してもそれなりに上手く行んじゃないかなぁ?全部、信じて結婚するわけじゃないけど、それなりにやって行けるように見えるけどね。

 アイは、パリでファッショの記事を書きたかったようだが、それも諦めかけている二ワンスだ。という事は、結婚は和彦次第だね。和彦は、沖縄というよりは、ノブコが好きなのかなぁ?サトルは、ノブコが幼いときに、毎日、豆腐の汁を食べに来ていた時に、その喜んでいる波動が好きになったんだろうね。ノブコは、腹が減っていただけだけどね。なんか、どの恋も、難しそうだな。

 それに加えて、彼らには、自分たちの夢?希望?成りたいもの、したい事、があるみたいだから、気持ちには自由感?みたいなものが多く流れているんだろうね。だから、結婚と親の意見に縛られたくないのだろうね。

 現代もそうだけど、自由をのたまう前に、彼や彼女たちは、「家庭の幸せ」みたいなものが見えなくなっていて、結婚に憧れていないんだろうね。和彦にしてもアイにしても、子供のころから見て来たものは、親の仕事が忙しいという事だったんだろうね。家庭の幸せについては、あんまり見て、感じて、育って来て、いないのかもね。

 死ぬほど好きで結婚しても、どちらかが死んでしまえば、現実として、その結婚も終わりだからね。

 今は亡き人が、心の中に生きていると感じている人たちはいるかも知れないけど、いずれにしても、亡き人が生きていたのは未来ではないから、思い出?の部類だろうね。あの世で、同じ人と結婚すれば別だけど、あの世にはあの世の法則があるだろうから、不確定の未来だよね。となると、人間の世界の家庭って、結局、「いい思い出」ということになるよね。

 とどのつまり、この世の家庭とは、家族の人生を前向きに作る場所じゃなくて、それなりにか、積極的にかは分らないけど、いい思い出を作る場所だったんだねぇー。なるほどね。ここかぁーー。ここさぁー。あーぁ~、だね。なんか、どっと疲れたなぁ。俺は知らなかったさぁー。あはは。家庭の安らぎとかというのは、いい思い出作りが絶好調の時にあるのかもね。

 まーねー、世間では、「好きな人と結婚して幸せに成る」みたいな価値観が集合意識として蔓延っていて、それが、未来の幸せへの常道だと、みんなが思っているみたいだから、それに乗せられて勘違いもするわな。俺もね。

 でも、よく考えていると、そういう幸せ感でいっぱいの時もあるだけで、実は、いい思い出作りが家庭生活の常道なんだろうね。

 つまり、家庭生活はいい思い出作りの場所だから、仕事をするときのような未来に向けての積極的な幸せ感を思っているのとは違っていて、本来の家庭生活は、どちらかというと後ろ向きで安定的な生活を重ねて行くみたいな性質が主なんだね。

 だから、これらを踏まえた総合的な社会システムとして考える時、その社会は前向きに発展することを必要としていていながら、家庭生活は後ろ向きに安定することを必要としていることになるんだよね。なかなか難しいけど、ここは、政治家さんや官僚さんたちが勘違いをしたらいけない所だろうね。

 とにかく言えることは、前向きな社会と後ろ向きな家庭とを繋ぐことにおいて、面倒くさいシステムはダメだよね。税金のシステムなどは、面倒くさすぎるよね。

 ややこしくて面倒くさい思い出は、身体の中の気の流れを悪くするから、要らないんだよね。究極的な幸せ感は、単純だからね。ケンシュウでも、そんなことは知っているさぁー。

 前向きな社会も後ろ向きな家庭も、幸福の拡大を求めているんでしょ。幸せに成るために進化したいんでしょ。システムをややこしくしたら、精神はたくさんのエネルギーを必要として、エネルギー不足になるから、幸福感が薄れるのですよ。ここは知っておいて欲しいところですね。

 俺は子供ころから、家庭に対してのいい思い出は無いさぁー。片親の人も、そもそも家庭がないから家庭でのいい思い出はないさぁー。そういう人が家族を持つのなら、家庭は自分にとっても相手にとっても、いい思い出作りの場所だと自覚した方がいいさぁー。

 ケンシュウは、親父が早く死んだけど、中学生には成っていたから、ギリギリ家庭があったことになるのかもね?良子から下は、母親と兄姉妹は有っても、家庭は無いやな。その記憶がいい思い出になるかどうかは、本人次第だろうね。

 思い出は過ぎて行った過去のものだから、思い出の中で、無いものを求めても無理さぁー。

 しかも、結婚して新しく自分の家族を作ったとしても、家庭は、良子みたいに未来に向けての希望を感じて進んでいるものではなくて、いい思い出を積み重ねていくところにミソがあるものなわけだから、そこの感覚を見誤ると、家庭がおかしくなちゃうよね。そいう事さぁー。

 今日は、家庭とは、結婚して未来に向けて幸せや幸福を増やすための場所だと思っておりましたが、家庭とは、いい思い出を作る場所なのだと認識している方が、的を得ていたんですね、の一席でした。

 なんと言いますか、この世の人間たちは、普段の生活の普通の感性(=集合意識)を、森羅万象の全てにおいて共通であるかのように感じていて、それゆえに、「ある思いが共通な事」と考えていて、勘違いをしていることがあるようでございますね。そんな現実があるということも知っていた方がいいようですね。

 仏教に「邪見」という言葉がありますが、この世では、集合意識そのものが邪見に落ちていることもあるんですね。微妙なバランスのところの問題ですけどね。

 ちなみに、このような邪見に落ちないためには、透明なところから物事を観ることが必要です。空気体瞑想をすることは、その透明なところに、深層意識でも体でも触れていることですから、空気体瞑想をすれば、邪見や勘違に気づきやすくなるでしょうね。

 たとえ気づかなくても無意識のうちに行動が修正される可能性が有ります。なにしろ、普遍的な透明感に触れているんだから、邪見や勘違いという汚れは、当たり前に解かって来るでしょうからね。さて、修法だよ。

 

 可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素やプラナエネルギー)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつでもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、息をして、透明な空に戻りましょう。←ここは重要です。

 透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。