おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って書いています。書き間違いがあるかも知れません。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどなどの意味です)。

 空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろに書いてあります。それが基本で、全てです。そこだけでも一読をお願いしたします。無料です。(プロフェール参照)

 過去からのいろいろな瞑想法もありまして、それはそれで良いのですけれども、それらの元は、真っ透明な空や空性(くうやくうせい)です。空気体瞑想は、今、ここ、身の回りにある透明な空気を方便として、各種瞑想法の元である真っ透明な空や空性へ入ろうとする瞑想法です。もっとも直接的な瞑想法と言えます。

 時代は、この空や空性を明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われること」はありません。今を超えて行きましょう。その後の行動は、その方の意識レベルと器次第です。

 地球は、太陽系の惑星と共に天の川銀河の中心へと近づいていて、エネルギー価を上げています。その地球上にいる人間の肉体もスピリチャル(精神)も、エネルギー価を上げながら常に進化して行くというのが、生命の本筋です。空気体瞑想をして、その本筋の流れに乗りましょう。

 魂はエネルギー価が上がることを好むように出来ています。それで、生と死と消滅と永遠を越えることになり、進化と開放と自由への道に繋がるのです。

 自分の中心に「透明な空」を意識して、勇気を出して進みましょう。

 「空や空性」と「深層意識の一番深い所」との共鳴率を、10段階とするならば、共鳴率が、5,1以上あれば善性です。4,9以下なら悪性です。これが、人生ドラマ、その善悪の基準です。なので、空性を増やしましょう。自他の進化と、貢献に繋がります。(無相の)徳を積むことになります。

 

 ちむどんどん、見ていますか?。

 沖縄居酒屋では、サトルの歓迎会だ。ノブコの初仕事の話も出ている。みんな、初めは東京の仕事場で苦労したみたいだ。ウチナンチュウだけじゃなくて、田舎から出て来た人は、住むところから、もう大変なようだ。

 会長の奥さんが、庭で取れたシークワサーをノブコの為に持ってきてくれた。ノブコは、仕事に行くのが嫌になっていたけど、しんどいのは自分だけじゃないと知って、シークワサーで元気になった。

 サトルは、大阪までの汽車賃しかなくて、少しの間だけ大阪の港で荷下ろしの仕事をしていたみたいだ。夢を持って東京に来ているから、きつい仕事でも、「心が身体を動かすのよぉー」などと吠えてガッツポーズをしている。憧れと夢があるというのは、そういうことなんだね。俺みたいに、居たいところも行く当ても無くて、したいことも無くて、真面目に働いて、風に吹かれている若者だったのとは、全く違う沖縄の若者なんだね。まー、いずれにしても、何かないと地元は離れないよね。

 次の日から、ノブコは懸命に働くようになった。沖縄時間を抜け出したようだ。テキパキと動けるようになって来た。気分が変わったからね。

 そして、まかないの料理の味で昇格審査みたいな仕組みがあることを知って、ノブコは、「まかないを作らせて欲しい」とオーナーに嘆願してみた。が、一か月も働いてないのに、認められるわけがない。そうしたら、ペペロンチーノを作ることで、オーナーと味比べの勝負をしたいと申し出た。半分、オーナーに喧嘩を売っている。

 その喧嘩で、オーナーが勝てば、ノブコはまかないを作らせてもらうことになるけど、負ければ、店を首となる話になってしまった。

 ペペロンチーノは、シンプルな料理でバランスが味と言っても過言ではないから、どっちのバランス感覚がいいかの勝負をするつもりだね。あっ、でも、ノブコが琉球の塩を使えば、勝つ要素は有るな。沖縄そばには、琉球の塩でないとダメなんだよね。それを、ペペロンチーノに使うのかな?

 まっ、どうせオーナーに気に入られてないのだから、力づくで勝負してもいいやな。だけど、汚いことしたら、鶴見のウチナンチュウの間での評判が悪くなるから、次の仕事に困るかも知れないよね。だからそこは、綺麗に勝負だね。

 オーナーは、この勝負を受けて立つようだ。

 どうもこのオーナーの大城房子さんは、沖縄出身の2世で、金の亡者らしいのだけど、もしかして、比嘉家の遠い親戚で東京の金持ちの人、にあたるのかな?ノブコが、一度は養子に行こうとした家かな?・・・えーと、房子という名前は、何処でも、頑固で気が強いだね。あはははは。

 

 沖縄の良子は、「キンゴと婚約しようと思っています」と、石川君に話をしている。石川君は、反対をしなかった。石川君は先生を辞めない限り、今以上に金を稼ぐ目途がないから、ケンショウの借金を抱えている良子とは、結婚できないやな。良子は、その場を去った。帰りのバスの中で泣いている。石川君は、そのままで、昼間から夜の閉店まで飲みさくって、潰れた。

 男の一番の辛さだね、石川君。好きと愛があった寅さんも、あとの金と全部が無くて、あははは、だからね。

 ゼンイツさんは、良子に対して、そろそろキンゴへの返事が欲しいと催促しているようだ。母親がそう言っている。

 ちょうどその朝に、ケンシュウが「みんなのケンシュウさまでーす」などと言いながら、ひょっこりと帰って来た。バカ。金でも作って来たのか。もしかして、あの後、競馬で万馬券でも当てたのかなぁ?この流れだったらありそうだな。

 ケンシュウは、博打に手を出したかぁ。しかも、勝っちゃったかぁー。こりゃー、転げ落ちそうだなぁ。まーでも、沖縄に競馬はないよね。上手く出来ている。

 母親の優子は、ケンシュウが無事に帰って来たので、大喜びだ。

 人間には、人間の精神として、助けい合いの心があるわけだけど、その仲間?に借金をするのが平気になると、どこかでタガが外れるのかもね知れないね。取りあえず食えて行ければいいじゃないかで、みんなでおおらかになると言えば、そんな感じだけど、自分を正当化する価値観として「金は天下の廻り物」という事で、貸した人が困らなきゃ、借金ぐらいは踏み倒してもいいじゃん、時間が解決するよ、という感じになるのかもね。もちろん、返す気はあるんだから、「俺が借金をしてやっているんだから、お前は利子で儲けて、しかも、徳まで積ませてやっているんだよ」、みたいな心持になるのかなぁ。あはは、だね。

 もし、借金を返せなきゃ、良子が、金持ちのキンゴの嫁になるしかないやな。それはそれで、何某かの楽しみがあることかも知れないけど、あとは、ケンシュウか誰かの寿命で払うしかないやな。

 そもそも、ケンシュウのタイプは、コツコツと働くことには向いてないんだから、寿命なんてちょっとあればいいのかも知れないやな。まーね、まさか、世間並みの幸せに成ろうなんて、大それたことを思ってはいないよね。というか、このままで、今死んでも、十分幸せな生き方だよね。あははは。

 とどのつまりは、犯罪でなければ、したいことをして生きて行きたいということなのかもね。それが徳を積むことになればいいけど、なんか、業と借金を積んでいる感じだよね。

 ノブコにしても、専門的なところの下積みが足らないと言えばそうだけど、下積みをしても徳が積めないと、だらだらと適当に過ごしているのと変わりがないからね。レストランの他の料理人みたいに、つまらない賭けをしてチャンスが来るまでの時間を潰していたら、いつの間にか、マンネリになっていました、という風景でしょうかね。あそこが難しいよね。

 いくらノブコのペペロンチーノが、オーナーに勝ったとしても、勝負だから、下積みとも違うしね。マンネリになって頑張っても、腐った奴に対して徳を積んでもしょうがないし、タイミングというのがあるのかもね。

 下積みとは、タイミングを見極められるようになることなのかも知れないね。

 ノブコが料理長に「次の野菜を入れるタイミングは、なんですか?」と聞いていたけど、料理長は「野菜が汗をかいたタイミングで、入れるんだよ」と言っていたね。達人は、タイミングとコロが分るという事なんだろうね。

 今のノブコは、突き進んでいるだけだから、タイミングを待てないんだね。

 オーナーに、ノブコを育てる気があるのなら、ちゃんとしたものを与えないといけないよね。というか、ノブコは野生の心で伸びて行くしかなさそうだね。ノブコは野生だから、タガが外れる前に、そのタガが無いや。

 タガが外れた(無い)助け合いは、天然のダルマエネルギーに沿って、成るようにしか成らないからね。それが、一番いいんだけど、ただ、タガが外れていると、きついし、人からの意見とタイミングに迷うし、時間がかかるよね。

 このタイプの人は、人からの意見やタイミングが的を得ていれば、上手く進むんだけど、その意見が、当たっているようで「ピン」と来なければ、その意見は役に立つどころか、その力づくの意見に従うと、かえって、苦境に落ちることがあるから、注意が必要だよね。

 そんな始末になったとしても、意見を言っている人、その人自身にとっては、益になっていることが多いいんだね。自分の為に意見を力づくで言ってる感じだよね。そこの自他の壁が超えられないとお互いの役に立たないから、間違った場合の償いは、寿命で払うことになるよね。

 でも、これを別な見方をして、いい所だけを見ると、「全部、許して、助け合っているわけで、あとは、命(寿命)の仕組みに任せる」みたいなことになるんだよね。なんだかよく分からないままの悟りの境地だよね。

 その境地にいても、現実は、世の中のみんなが生存競争をしているわけだから、しわ寄せがあちこちに出てくるよね。明日の食い扶持も無いようなとても厳しいことになっていることもあるよね。

 そもそも、寿命や命で払う感覚なんて、持ち合わせていない奴が、生存競争をして、人の上に行きたがることが多いいね。野心だね。

 結局のところ、そんなんでも、命(寿命)で払いながらも、少しづつまともに成って行けば、御の字なのでございましょうね。

 今日は、「生きていれば、全部許して、どこか助け合っているというような世界感になってしまって、(それは、悟りの境地に近くて、)あとは、命(寿命)の仕組みに任せるだけみたいなことになるのでしょうが、世の中には、ロクでもない奴がけっこういますから、命(寿命)で払いながらも、まともに成って行くような現実が一つでもあれば、奇跡的な御の字なのでございましょうね、の一席でした。さて、修法だよ。

 まっ、空気体瞑想をして、限りある寿命よりは、透明な永遠の命に触れて、人生の御の字を体現したものですね。

 

 可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素やプラナエネルギー)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつでもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、息をして、透明な空に戻りましょう。←ここは重要です。

 透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。