おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどなどの意味です)。
空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろに書いてあります。それが基本で、全てです。そこだけでも一読をお願いしたします。無料です。
過去からのいろいろな瞑想法もありまして、それはそれで良いのですけれども、それらの元は、空や空性(くうやくうせい)です。空気体瞑想は、今、ここ、身の回りにある透明な空気を方便として、各種瞑想法の元である透明な空や空性へ入ろうとする瞑想法です。もっとも直接的な瞑想法と言えます。
時代は、この空や空性を明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われること」は有りません。今を超えて行きましょう。その後は、その方の意識レベルと器次第です。
天の川銀河の中心へと、太陽系惑星の地球が近づいているように、肉体もスピリチャル(精神)も、エネルギー価を上げながら常に進化します。
自分の中心に「透明な空」を意識して、勇気を出して進みましょう。
「空や空性」と「深層意識の一番深い所」との共鳴率を、10段階とするならば、共鳴率が、5,1以上あれば善性です。4,9以下なら悪性です。これが、人生ドラマ、その善悪の基準です。空性を増やしましょう。自分と多くの人の進化に繋がります。
ちむどんどん見ていますか?。
ノブコの父親は、心臓発作で死んだ。臨終際には、家族全員がそろっていた。父親は一人一人に声をかけて、そうして逝った。しかし、ノブコには何も言わなかったようだ。ノブコはそれが気になっている。「ノブコは、ノブコのままで上等。自分の信じた道を行け」という父の言葉を思い出している。
母親の優子は、借金返済の為に新しい仕事に就いて、朝早くから工事現場のまかないをするようになった。子供たちは、協力して家事などをするようになった。自分のことは自分でするわけだね。・・・そういう、はずだった。しかし、10日も経つと、子供たちはくたびれてしまい、ガタガタだ。
『情けない育て方をしているね』と、まー、俺は勝手にそう思うけど、世の中のそれなりに幸せな家庭は、そういうもんだろうね。いきなり、父親が居なくなったんだからね。喪失感の上に、寂しさと労働だから、きついよね。どんな運命でも、半分はしんどい運命な訳だけど、父親が死んだりすると、いきなりそれを受け入れるところから始めないといけないから、そこが苦しいよね。それに、人とは違うところ始めないといけない感覚になるからね。父親が居たら居たで、いろいろと問題があるんだろうけどね。あははは。
結局、生きていてその人生の中で「嫌な事」について言うと、それらを究極まで突き詰めれば、「半分はしんどい運命」と「貧乏」という事になるのじゃないかなぁ?。そして、その二つを受け入れられるかどうか、ということになるのかもね。
俯瞰して考えると、生きていれば、しんどい感覚の方が自分の感覚の中では目立つから、特に気になるよね。貧乏は、腹が減るからすぐに分かるよね。どちらも、嫌な事だよね。
ただ、腹が減るという事は、まだ、かかっているストレスは弱い部類かもね。本当に強いストレスがかかると感情も空腹も麻痺するからね。いつも、火事場の馬鹿力のようなエネルギー状態で、いっぱい、いっぱいで生きている感じになるからね。しんどい事も忘れているよね。でも、そんなことも、周りの普通の人たちには解らないことだし、自分自身も解からないで過ごしているみたいだね。ケンシュウや兄弟たちも、火事場の馬鹿力で、10日ほど頑張ったんだね。
その上で、母親の一日の稼は、とても少ないものだった。貧しさも攻めて来ている。長男のケンシュウは食卓を明るくしようとしたが、どうも頼りにならないようだ。
なんか長子(長男)って、なかなか上手く育たない感じもするな。普通の範囲には育っているけど、ただ、ピンチになると「物理的な一人」に弱いよね。責任感はあるみたいだけど、耐えきれないんだろうね。
実際では、長子(長男)が社会に出てから、そこそこの地位に付いて居ても、治らない病気になっている人も多いいだよね。女遊びが自慢?みたいな感じで、自分を開放する方に破目を外し過ぎているんだろうね。お金を出してでも、その空間で自分が中心人物で居たんだろうね。
長子は生まれた時に、その両親にとって、間違いなくの中心人物だからね。その生まれてきたことが、その両親の望みだったのかどうかは、別としてね。たいがいの赤ちゃんは、両親が喜んで受け入れているけどね。両親に喜んでもらえれば、長子は、間違いなくいい意味で中心人物だよね。あははは。
そういう事から考えると、長子は、自分が中心人物で居たいがゆえに、「神様仏様の上に自分がある」みたいな思考や行動を取り易いんだよね。どこでも自分が中心人物になりたいからね。
聖書のバベルの塔の物語で、神に届くような塔を作ろうとした王様は、塔の完成が間近になって、神様の怒りをかって、神様に塔を破壊されてしまったけど、この王様は、自分が神様よりも中心人物に成りたかったんだろうね。破目を外したね。それゆえに、民衆は、それぞれに違う言語を話すようになり、バラバラになったんだね。民族という種別が出来たんだね。その時までは、同じ言葉を使っていたのにね。違う言葉を使うという事は、意識も集合意識も民族ごとに違うという事だから、コミュニケーションも取れなくなって、バラバラになったんだね。
ゆえに、人間は、自分が中心人物になるのではなくて、自分の中に生きている神様や佛様や透明な天然のダルマエネルギーを中心人物だと自覚する必要があるんだね。これが、本当の謙虚さと言われるものでございましょうね。
どんな運命でも、半分はしんどいんだから、空気体瞑想をして、本当の謙虚さを自分の中に見つけましょう。
今日は、親父が死んだ。家族の中の「中心人物」は、誰?どこ?・・・その答えは、自分の中で生きている「神様や仏様への謙虚さ」と「天然のダルマエネルギーの流れを自覚したときの謙虚さ」です、それらが「中心人物」です、という一席でした。
巷ではよく、「あの人は死んだけど、今も私の心の中に生きています」という言い方もありますが、「あの人は死んだけど、今も私の心の中に、透明な神様と共に生きています」と告げるのが、なおよろしいかと思いますね。生と死に対する本当の謙虚さへ向けて進化しやすいですね。
第二次世界大戦で、神風特攻隊や兵隊さんが、「靖国神社で会おう」と言って出撃したのも、自分の中心に神様があるという意味で、本当の謙虚さの現われでしょうね。一人一人、「中心人物」ですね。
当時の日本に、こういうシステムがあるという事は、全体として、純正日本人の一人一人は、上も下も、大筋?の中心や大儀?の中心で、そんなに間違えたことはしていないと、俺は思いますね。雑魚(ざこ)は変なことをしたでしょうけどね。それは、どこの国でも同じでしょうからね。さて、修法だよ。
可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素やプラナエネルギー)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、息をして、透明な空に戻ればいいからね。
透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。