おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどなどの意味です)。

 空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろに書いてあります。それが基本で、全てです。そこだけでも一読をお願いしたします。無料です。

 過去からのいろいろな瞑想法もありまして、それはそれで良いのですけれども、それらの元は、空や空性(くうやくうせい)です。空気体瞑想は、今、ここ、身の回りにある透明な空気を方便として、各種瞑想法の元である透明な空や空性へ入ろうとする瞑想法です。もっとも直接的な瞑想法と言えます。

 時代は、この空や空性を明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われること」は有りません。今を超えて行きましょう。その後は、その方の意識レベルと器次第です。肉体もスピリチャル(精神)も常に進化します。

 自分の中心に「透明な空」を意識して、勇気を出して進みましょう。

 「空や空性」と「深層意識の一番深い所」との共鳴率を、10段階とするならば、共鳴率が、5,1以上あれば善性です。4,9以下なら悪性です。これが、人生ドラマの善悪の基準です。空性を増やしましょう。自分と多くの人の進化に繋がります。

 カムカムエブリバディ、見ていますか?。

 るいとヒナタが年を取っている。ジャズ喫茶を開いているみたいだ。ヒナタはアメリカから空港に到着したところだ。なにか、いろいろと仕事をしている感じだな。←という、将来の予告がドラマの頭に有ったようだ。じゃぁ、安子とるいは、上手く行ったのかな?。

 

 さて、前回のドラマの続きだ。

 2004年1月公開の映画「侍ベースボール」は、公開の日にちが押し迫っている。そんな中、ヒナタは有給休暇を取って、岡山のクリスマスジャズコンサートへ行くようだ。その前に、アニーに会いたかったヒナタだが、アニーの方は忙しいようで、岡山へは行けないようだ。わざと忙しくしている感じもあるね。それでも、ヒナタは、アニーの付き人をしている甥のジョージに、クリスマスジャズコンサートのチケットを2枚渡した。

 岡山のジャズ喫茶に、るいと錠一郎とトミーが着いた。トミーが出るから、スポンサーも付いて、予想より大きなコンサートになったようだ。るいはそれを知り、ますます緊張して、ボイトレをすると言い始めた。焦っている。

 アニーは、東京から京都のホテルに帰って来た。甥のジョージが、ヒナタから手渡されたジャズコンサートのチケットを、アニーに渡した。そして、

「これも、奇縁だから岡山へ行ったらいい」と言った。アニーは、

「行かない。NOよ。私は、明日、日本を出て、二度と日本には戻らないの」と言い切っている。アニーは、るいと別れてからの人生を、「後悔するもの」にしたくないのかも知れない。いや、「これで、良かったんだ」と思いたいのかも知れないね。親子でも、それぞれの人生だと思うんだろうね。

 アニーにしてみれば、努力して真面目に生きたのに、天涯孤独になって、算太にも裏切られて、そりゃー、運命も神様も仏様も有ったもんじゃないよね。もがいたあげくのアメリカ行きの状況で、おそらくアメリカでも、さらに、もがいたんだろうね。自分で、自分を納得させることだけが、アニーの出来ることだったんだろうからね。そうしないと、何でもかんでも恨みつらみになるからね。そんな崩れからはしたくないのが、純正日本人の安子だよね。アニーは、安子だな。どうしようもない切なさがあって、それによって、自分が崩れないようにと、なんとか戦っているんだね。それは、頑固とは違うものだね。馬鹿というのとも違うものね。

 (暗闇が)一夜明けて、岡山ではクリスマスジャズコンサートの当日だ。控え室にヒナタが来た。るいは、ガチガチに緊張している。つばも飲み込めない。

 ヒナタは、一恵のお母さんが「るいは緊張しているだろうから」と渡してくれた抹茶のセットを、るいに渡そうとしたが、るいは、それに手もつけられない様子だ。

 そこへ、るいが大阪に居た時に、お世話になったクリーニング屋のおばちゃんが来た。大阪のお母さんだ。錠一郎が、切符などを手配したみたいだ。るいは、会えて号泣している。さらに、そこへ、大坂のジャズ喫茶の店長も来た。トミーが手配したみたいだ。ジョーも年老いた店長に会って、号泣だ。トミーは、このコンサートで何かの覚悟してる感じだね。

 一方、アニーは大阪のラジオ局に仕事が入っていた。

 ヒナタは、クリスマスジャズコンサートの控室でラジオをつけた。「侍ベースボール」の宣伝番組を聞くためだ。ところが、ヒナタは、その番組にアニーが出ていることを初めて知った。驚いている。

 まーねー、縁が有るから、生きているうちは、なにかの修正のために、映画であろうが、ラジオであろうが、何であろうが、どうしても繋がる時は、繋がるものなのかもね。えーと、これはドラマだけどね。

 まー、空性(くうせい)で繋がっていても、その空間に一緒にいることが出来なくなったら、何かの解決のためであろうが、何かが未解決であろうが、それはそれで、どちらかがその場で消えるだけだからね。移動して逃げるのとは違って、逃げないでその場でそのまま消えるんだよね。霊界はそうだからね。現実では、心のつながりは消えて、そこに虚無の肉体があるだけ、という感じかもね。肉体的には生きてはいるけどね。もう仮面は被っていないやな。

 アニー=安子だろうから、、、「運命も神も佛も肉親もない」と思っても仕方のない人生になってしまった安子だけど、虚無になってアメリカに渡った、その先に、安子の遺伝子の中の母性というプログラムが、「私はいい、私のことはいい。これが私の人生だったんだと思うから。。。でも、私みたいにるいの心の中に、「運命も神も佛も肉親もない」という闇を作りたくない」。やがて、安子はそう感じてしまうのかもね。

 安子が自分の人生の納得を取るか、それとも、この最後のチャンスに、別れた6歳の時から時々しかならない風鈴で過ごして、暗闇の道をあるいたるいを、わだかまりのない真人間にして、日向の道に送り出すか、、、安子の中に「納得」と「母性」のせめぎ合いが有って、そこの別れ道でしょうね。そしてそれは、運命も神も佛も肉親もないと思っている安子が、試される?いや、空性(くうせい)の本質で動いてしまうところだろうね。母と娘だからね。・・これが、父親と息子ならちょっと違うパターンになるだろうけどね。

 そして、クリスマスコンサートで、るいは「サニーサイドオブザストリート(日の当たる道)」をステージで歌って、安子に対して「一人で、日の当たる道に出たよ。ちゃんと生きられたよ、見て。」と言うのでございましょうね。それは6歳のあの時のるいだね。安子にとっても、なによりでございますね。

 今日は、この世では、仕方のない人生になってしまう人もいますし、また、色々な暗闇とドロドロがありますけれども、その上で、真人間に成れた者が歩く道こそ、日向の道なのでございましょうね、の一席でした。

 運命も神も佛も信じられないような目に会い、肉親も裏切り者のようで忘れるしかなく、そして、世間一般的にあるような母性も、まともな育みもよく分からないで、取りあえず、生きて来た人たちは、どう転んでも「俺の人生なんて、どうせ、、」とかと思っているかも知れませんよね。でも、そうなんだから、まー、取りあえず、空気体瞑想でもしましょうよ。

 空気体瞑想は、自分の魂と空性(くうせい)とのやり取りな訳で、そこではそれ以外に無く、だから、真人間に近づけるわけで、、、そのようにすれば、生存と消滅を越えた、自分の日向の道が見えてくるかも知れませんよね。どうせ、世の中は暗闇なんだしね。見えなくて、元々だしね。今日は、そんなところでしょうかね。それでも、明日はあるさ。さて、午後の行だ。空気体瞑想だ。

 

可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素やプラナエネルギー)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、息をして、透明な空に戻ればいいからね。

 透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。