おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどなどの意味です)。
空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろに書いてあります。それが基本で、全てです。そこだけでも一読をお願いしたします。無料です。
過去からのいろいろな瞑想法もありまして、それはそれで良いのですけれども、それらの元は、空や空性(くうやくうせい)です。空気体瞑想は、今、ここ、身の回りにある透明な空気を方便として、各種瞑想法の元である透明な空や空性へ入ろうとする瞑想法です。もっとも直接的な瞑想法と言えます。
時代は、この空や空性を明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われること」は有りません。今を超えて行きましょう。その後は、その方の意識レベルと器次第です。常に進化します。
自分の中心に「透明な空」を意識して、勇気を出して進みましょう。
「空や空性」と深層意識の一番深い所との共鳴率を、10段階とするならば、共鳴率が、5,1以上あれば善性です。4,9以下なら悪性です。これが、人生ドラマの善悪の基準です。空性を増やしましょう。
ニッポンぶらり鉄道旅見ていますか?。
阪神本線だ。
まず、尼崎市だ。尼崎城というのがあるんだね。そのプラモデルを作って売っている人がいる。金型にお金がかかるんだね。元を取るのが大変だね。
今日のテーマは、諦めませんを探しての旅だ。
次、出屋敷だ。実話の怪談作家だ。面白そうだ。現実の話で、ホルターガイストが多いいみたいだな。あとは、空襲の時に、友の霊体が防空壕まで導いてくれた話だね。人間の魂の奥深さの話だ。阪神大震災では、霊体とかの話は多そうだけどね?。
結論から言えば、霊体のエネルギー量が多いいか、少ないかだけだからね。仕組みは色々あるらしいけど、魂の精神力エネルギーみたいなものだろうね。霊魂になっても、ダルマエネルギーを外れれば、妖怪に成り下がるよね。妖怪の行く地獄はきついからね。
次、打出だ。打ち出の小槌というのはあるけど、関係が有るのかな。
ハムの職人さんだ。生のソーセージを売っている。牛の肉でも、その個体によって質が違うんだね。ソーセージ作りも肉を選んで使うんだね。パイ生地にミンチの肉を入れて、焼いているんだね。シャルシュチエという職業なんだね。肉の味も色々あるらしいけど、俺は、ほとんど知らないな。肉の味を比べられるほど、いい肉を食べたことがないからね。果物の味なら、味の違いがすぐに分かるけどね。肉と魚は、よく分からないな。正直なことを言うと、食べるけど、俺は、その肉や魚が、旨いかどうかはあんまり分からないかもね。産まれてからずっとそうかもね。ウインナーとかカマボコの方が、まだ、気分に合う感じだな。食べるのに精神力が少なくて済むからね。
次、岩屋だ。防災音楽ユニットのミュージシャンだ。災害の注意事項などを歌にしているんだね。阪神淡路大震災から、自分は、いろいろと「生かされた命」と感じていて、しかもミュージシャンなんだね。
世の中のために、「防災」を身近なものにして行こうと考えているんだね。尼崎でコンサートをやるよりは、災害がまだ起きていないところに行って、コンサートをした方がいいかもね。地方の役場や消防所や警察署とかと、連携が取れるといいね。
次、元町だ。中国料理の店の並ぶ、南京町商店街だ。毎年、春節をお祝いしているんだね。中国獅子舞とかがあるんだね。高校生が練習をしているんだね。だけど、中国人は、中国人の顔をしているね。初めて気づいた。半島人とは少し違うんだね。高校生たちは、すっかり日本語が上手くなっているけど、やっぱり中国が忘れられないんだろうね。遺伝子による意識の問題だろうね。
今日のテーマの、あきらめないことを探して、だけど、これはー、書くことがないやな。
テーマについての結論としては、その諦めきれない事柄について、重箱の隅をつつくようにして、繊細に掘り下げて、どれだけ続けていくか、が諦めない事にかかってるのかもね。研究して妥協点か調和点を探す感じだね。
諦めずに進んで行くことが、調和に繋がればいいけど、諦めないこと自体に自我作用が有るわけで、周りとの壁を厚くしている時もあるよね。中身の問題だね。進むにつれて自我の自己正当化だけじゃ、どうにもならなくなることもあるだろうね。
「プラモデル作りの面白い」、「実話の怪談話の怖いけど魂の愛」、「防災ミュージシャンの生かされたが故の志」、「日本の中華街にいる、中国人の望郷の思い」、そういうのを押しなべて考えると、どれにも少しだけ普遍的な感覚が内在していそうだけど、まー、生きていることを、まともな範囲で、楽しみたいという事かもね。
だから、つまり、逆説的に言うと、この人たちは生きていることがそこそこ楽しいし、楽しんでいける人たちなんだね。少なくとも、その辺の楽しさを多く知っている人たちなんだろうね。普通と言えば普通だけど、諦めないというよりは、諦められない感じかもね。楽しいからね。
そりゃー、その事柄が、その人にとって、楽しい側にいるんだから、諦められないよね。そして、その楽しさの逆側に阪神淡路大震災があって、しかも、震災の意味は激しく失う事だよね。
つまり、「諦めない」の一つ向こう側には、失いたくない気持ちがあるんだね。それで、いろいろと工夫と努力をしている感じだね。当たり前だけどね。
霧の中に居ながらでも、なんとか自分が存在しているわけで、その存在感や生存感の充実を、それなりに求めているのかもね。霧の中で見えない自己を、なんとか見えるようになりたいという事かもね。自分が好む楽しみを通してね。それか、『頑張っているのだから、存在感や生存感が無くなるのは嫌だ』という感じかもね。
とどのつまりは、自己の「存在と生存の価値」なわけで、それが楽しいか、虚しいか、という事になる訳で、そりゃー、何某かの楽しい感じがある方がいいに決まっているよね。まー、楽しくても虚しくても、存在している時は、存在しているんだけどね。たとえ虚しくても、存在しているんだけどね。虚しさを感じる自己が、あるんだからね。
それゆえにさらに突き詰めると、その状況や事象において、好きなところが多いいか、嫌いなところが多いいかということになるのかもね。まっ、その状況が嫌いでも、そこに居なきゃ成り立たないのなら、まともで楽しい事?か、まともで好きなことを探すしかないんだよね。「楽しんで行こう」だよね。
楽しみを探しても見つからなければ、好きなことを作るしかないやな。作ってみて、自分以外の人が楽しんでくれたら、「存在と生存の価値」が自分にも有るように思えるんだろうね。実際は、楽しくても虚しくても生存しているんだけどね。あはははは。ここだよね。
全体、煮詰めると、人間は、「生きているだけで丸儲け」になりたいんだね。「生きているだけで丸儲け」に、お金や物質や名誉や地位や恋や愛、などなどが付いてくると、もっといい感じなんだろうね。普通はそうだよね。でも、求めても全部は手に入り難いよね。
押しなべて考えてみると、結論として、(四苦八苦の)この世で、虚しさを丸ごと静かに受け入れられるかどうかが、カギかも知れないな。それが常に出来るような魂になれば、この世に居ても、楽しい事ばかりに感じられるのかもね。この楽しさは、上っ面を流れて行くような次元の話ではなくて、深くてかなり高度な次元の楽しさだろうね。爽やかな感じかもね。
四苦八苦のこの世の中に存在して生存するコツは、生きるための努力による虚しさや努力して生きた状況で起こる虚しさを、なにげに受け入れることなのかもね。難しいけど、慣れかもね。
虚しくならにように、智慧と英知で解決できればいいけど、普通の人間は、智慧と英知が少ない生き物だから、直接に虚しさを受け入れるしか、やりようがないんだよね。
ゆえに、「存在と生存の価値」」について真正面から解決をするのなら、その人の魂が、虚しさを受け入れることを学習することだろうよね。「人のせいにするな」とか言うのは、その訓練の言葉だね。
いくら辛いこの世でも、天然のダルマ法則のエネルギーの流れは、無くなることがないのだから、魂が虚しさを受け入れるコツを覚えれば、精神的には無敵だよね。慣れだけどね。死や消滅に対しても無敵だよね。これを禅宗では、「心を虚しゅう(空しゅう)して、座る」とかと言っているよね。
虚しさをこの世的な物で埋めようとすると、かなりややこしくなるよね。みんな、それをやっているけどね。キャパの限界を超えれば、依存症だよね。
まー、今日のテーマの、諦めない事を探しては、諦めても諦めなくても、魂が無敵に成るまで成長することだったという事でございましょうね。
今日は、まず、「道を外した、しなくてもいい苦労はしなくてもいいし、わざわざ余計な苦労をさせてもいけない。(ただ、あえて苦労・苦行の必要な人もいる)」というのが法則的に大前提だけど、四苦八苦のこの世において、「生存と存在の価値」を埋めるためには、魂が虚しさを受け入れるコツを学習するということが必要で、それが出来るようになれば、四苦八苦のこの世であっても、精神は無敵に成れる、という一席でした。
というか、人間において、そういうのが出来るようになるば、(悪くもないのに)パラサイ派に処刑されたキリストさんみたいに、肉体ごとサッサと昇天してしまうかもね。霊魂のホルターガイストじゃないけど、肝心なのは、魂のエネルギー量ですね。あとは、その魂が汚れているか、清浄か、聖なるものか、の違いですね。魂の掃除は重要です。空気体瞑想は、魂のエネルギー量を増やす瞑想法でもあります。さて、修法だよ。
今日は、恐れ多くも賢くも日本国と日本国民の分の福徳円満商売繫盛、技芸上達の弁財天尊様の修法だよ。
可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素という空気)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、息をして、透明な空に戻ればいいからね。
透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。