おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどなどの意味です)。
空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろに書いてあります。それが基本で、全てです。そこだけでも一読をお願いしたします。無料です。
過去からのいろいろな瞑想法もありまして、それはそれで良いのですけれども、それらの元は、空や空性(くうやくうせい)です。空気体瞑想は、今、ここ、身の回りにある透明な空気を方便として、各種瞑想法の元である透明な空や空性へ入ろうとする瞑想法です。もっとも直接的な瞑想法と言えます。
時代は、この空や空性を明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われること」は有りません。今を超えて行きましょう。その後は、その方の意識レベルと器次第です。常に進化します。
自分の中心に「透明な空」を意識して、勇気を出して進みましょう。
「空や空性」と深層意識の一番深い所との共鳴率を、10段階とするならば、共鳴率が、5,1以上あれば、善性です。4,9以下なら悪性です。これが、人生ドラマの善悪の基準です。空性を増やしましょう。
カムカムエブリバディ、見ていますか?。
朝ドラで、「ひらり」が始まった時期だ。
るいは、正月の3日にカラーテレビを買った。大売出しの展示品かな。桃太郎は、なんとか記念日の短歌に凝っているようだ。彼の恋の相手は、さやちゃん先生だ。青春だ。高校野球だ。桃太郎、お前も若いお姉さんのいい感じの母性に飢えているんだね。ヒナタには、感じないものだよなぁ。
映画村では、時代劇の本数が少なくなってきて、存続の危機だ。ヒナタは、榊原から映画村の活性化になるような、新しいアイデアを求められている。かなり追いつめられている。
そんな時、ヒナタが回転焼き屋に帰ってみると、外国人が饅頭を買いに来ていた。るいは、そのお客に英語を話し、相手をしていた。それを見たヒナタは、英会話教室でマンツーマンでの英語の勉強をすることにした。費用は、結婚資金を取り崩したみたいだ。ヒナタは、映画村に増えている外国人を相手に英語で営業をして、活性化をしようと考えたようだ。
しかし、3か月間、マンツーマンで勉強しても、英会話は上手くならなかった。テレビが5万円の時代に9万円も払ったのに、とほほ、だね。ヒナタは幼い頃から、学習については友達だよりだったからね。あーぁ~、だね。
ヒナタは、男もダメだし、勉強もダメだし、英語もダメだし、映画村も危ないし、暗やみで、英語の歌も聞こえないし、悲惨だな。あっ、お化け屋敷に幽霊はいるけどね。あはは。
そうだ、どうせ友達頼みなら、一恵に協力をしてもらって、映画村で、定期的に茶道教室のお試しコースみたいなことをやればいいかもね。映画村内でのお茶の野立てがいいかな?武士とお姫様の格好をすれば、野立てのお茶をしても面白いかもね。茶道教室というよりは、映画の1シーンとして、野立ての風景をビデオに撮って渡してあげると、お客さんは喜ぶかもね。
あっ、今の時代は、インスタ映えするとかと言って写真を撮っているけど、観光地でビデオを撮って、それを記念ビデオにするサービスが有ればいいかもね。・・どうかなぁ。昔は、観光地での記念写真を有料で撮っていたけど、今なら、ビデオかな。スマホでも動画は撮れるけど、何か有料でも、ビデオに撮っておきたいと思えるぐらいの工夫をすることが出来ないかなぁ。映画村なら、出来るけどね。
そもそもアイデアなんていうのは、ある意味で、笑われて当然のものだからね。人が思いつかないからアイデアなんだからね。世間が簡単に理解できるようなら、それは、ないよりはましなもので、だけど、利益も出ないかもね。まー、丸いアイデアも切りようで四角、だよね。工夫次第だね。
それに、そもそも、木の葉が落ちても、木の葉が風に飛んでも、そこで、何かを感じたり思いついたりする必死さと余裕がないと、アイデアなんで出て来ないやな。ぼーっと、生きていたんじゃ、何にもねーよ、だよね。
ニュートンだって、逸話では、リンゴの実が木から落ちるのを見て、重力を発見したんだからね。そいうことがアイデアなんだよね。つまり、察知力、洞察力、想像力だよね。それに加えて、常に現状を良くしようと思ってないと、アイデアは出て来ないやな。言ってしまえば、どうでもいいと思っていても、常に良くしようと感じてないと出て来ないんだよね。
それで、結果として、重箱の隅を楊枝でほじくるようなアイデアが出てきたとして、それが笑われても、それでいいんだからね。だけど、四角いアイデアも切りようで丸くなるんだよね。そこには、アイデア意図を知り、アイデアを変形させるための頭の回転のスピードが必要なんだね。
変わっていれば、変わっているアイデアほど、まともな者が、そこから何かを導き出してやれば、面白いものが出来る時があるんだよね。ゴミなアイデアだと判明する時もあるけどね。
通常は、導き出すことも出来ずに、否定している奴が多いけど、そういう奴はゴミなアイデアすらも出て来ない奴らだからね。
そういう奴らがすることは、奴らなりの常識的で考えて、権力や金や人間づき合いに頼って、汚れたものを作ることだよね。そんな事だから、取りあえず売るためにバリバリに宣伝して、赤字にならなかったら良かった、という感じの成功しかしないよね。だいたいは、すぐに飽きられて赤字だよね。テーマパークとかによくあるパターンだよね。赤字を不景気のせいにしているけど、実は全体、テーマパークの存在する業が汚れていんだよね。だって、業の泥水にお金を払って、わざわざ入りに来るようなお客は、少ないでしょう。宣伝なんて、泥水を水素水ですとかと言って、売っているようなイメージ戦略だからね。それでも、それ乗る人はいるけどね。リピータにはなりにくいよね。表向きだけのインチキならば、もう終わる時代が来ているのかもね。
ところで、例えば、アイデアの元である、察知力、洞察力、想像力について言うと、それらを鍛えるのに、俳句のお題とかは、絶好だよね。しかも、俳句は、五七五に入れないといけないし、入れられなければ、言葉の流れを感じないといけなし、言っていることが通じる範囲とかを客観的に考えないといけなし、などなど、アイデアを出す訓練には、最適だと思うね。
にもかかわらず、アホは、俳句は俳句としてしか見ないんだよね。それで、俳号?とかを自分で作っちゃってさ、着物なんか着ちゃってさ、「風流ですね」なんて言ちゃってさ、俳句は描写だとか、浅い意味だ、深い意味だ、人間性だとかと言ちゃってさ、ノスタルジーに浸っちゃってさ、全然、現実の生活の上でのアイデアらしきものを出して来てなくて、今を生きてねぇーじゃねぇーかよ、だね。まー、だいたい、俳人は、世捨て人の廃人でもあるけどね。金より、アイデアより、風流がいいのかも知れないけどね。趣味だよね。あははは。
俳句は日本の文化だけど、俳句を風流だとかと言っているのもいいけど、察知力、洞察力、想像力の訓練にとても適しているわけで、アイデアを出す脳の回路を作る訓練、そのものでもあるんだから、俳句を作る時に、現実を察知したり洞察したりして、見つめるにしても、想像力で空想として考えるにしても、脳の訓練だと思って、もっと必死で考えろ、と俺は言いたくなるんでございますね。虚無蔵的に言うと、アイデアを出すための鍛錬だよね。
俳句の先生も、ただ単に俳句を教えているだけじゃなくて、俳句を作る訓練をすることで、アイデアが出る訓練をしているんだという認識に立って、俳句を教えた方がいいと思いますね。そうしたら、習う方も現実味があって真剣になると思いますね。それには、教える方も習う方も意識をちょっと切り替えるだけ済むんだからね。それが出来なきゃ、ひなた並みの凡人だという事だね。3か月やっても、3年やっても、同じでございましょうね。凡人でも、空気体瞑想をすれば、少しづつは進化するでしょうけどね。
松尾芭蕉は、弟子の空(そら)(曾良)と奥の細道を歩きました。空気体瞑想をすることは、空(くう)と歩くことかも知れませんね。
今日は、アイデアを出すのと、「察知力、洞察力、想像力」と、俳句の五七五の法則と脳の回路についての、一席でした。さて、修法だよ。
可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素という空気)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、息をして、透明な空に戻ればいいからね。
透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。