おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどなどの意味です)。

 空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろに書いてあります。それが基本で、全てです。そこだけでも一読をお願いしたします。無料です。

 過去からのいろいろな瞑想法もありまして、それはそれで良いのですけれど、それらの元は、空や空性(くうやくうせい)です。空気体瞑想は、今、ここ、身の回りにある透明な空気を方便として、各種瞑想法の元である透明な空や空性へ入ろうとする瞑想法です。もっとも直接的な瞑想法と言えます。

 時代は、この空や空性を明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われること」は有りません。今を超えて行きましょう。その後は、その方の意識レベルと器次第です。常に進化します。

 自分の中心に「透明な空」を意識して、勇気を出して進みましょう。

  「空や空性」と深層意識の一番深い所との共鳴率が、5,1以上あれば、善性です。4,9以下なら悪性です。これが、人生ドラマの善悪の基準です。空性を増やしましょう。

 

 カムカムエブリバディ、見ていますか?。

 「ノストラダムスの大予言で1999年人類滅亡」、その年の7年前だ。という事は、1992年だね。ヒナタは、生き残りたいのかな。滅亡したいのかな。人類滅亡が、気になっているようだ。

 そして、映画村の来場者を増やすアイデアも考えなければいけない、ヒナタなのだ。しかし、そういうことは、上の空だ。1999年、ヒナタ滅亡の年だな。

 三崎すみれは、再びテレビの仕事が増えたみたいだ。お茶の作法をちゃんとやっていたら、その努力が認められて、テレビの仕事が入り始めたのかもね。芸能人に言ってもしょうがないけど、すみれは生きて行く為の作法を、もっと体得した方がいいやな。人前に立つ割には、ストレスに対する耐久性が弱いよね。プライドが先だからね。

 桃太郎は、年上の女性のサヨちゃんに、恋をしているようだ。青春だな。サヨは桃太郎の学校の先生のようだ。でも、気持ちは分かる。俺は、小学校低学年の時に、若い女の先生にああいう雰囲気を感じたことがあるな。桃太郎は、女の愛の波動に飢えているね。錠一郎のせいだな。るいが忙しいからね。

 そんな時、ヒナタは映画村を活性化するアイデアとして、お化け屋敷を思いついた。「妖怪七変化」の映画監督も、演出を手伝ってくれることになった。8月1日が、開演日だ。五十嵐も大部屋俳優として参加している。五十嵐は、痩せているから幽霊が似合うよね。しかし、あんまりやる気がないようだ。仕事があるだけは、どうにも不満なようだ。

 それを感じたヒナタは、「あと、7年で地球が滅亡するのなら、ワタシ、文ちゃん(五十嵐)と少しでも長く一緒に居たい」とかと五十嵐に言い始めた。えーと、それは、ノストラダムスの予言とは、関係ないでしょうね。五十嵐と生活できるかどうかだけでしょ。まー、共稼ぎなら何とかなるだろうけど、親父の錠一郎よりは、五十嵐の方が働いている感じだから、そう思うのかもね。ヒナタは、錠一郎を養っているるいを見て育っているから、男の収入には興味がないかもね。遊び人の男が好きなのかね。

 なんか、安子もるいもヒナタも、世界が滅亡する日まで、好きな男と苦労しながらでも、生活したいのかなぁ。それが、女子と女なのかね。?。でも、その「好き」も怪しいし、人生の流れで変わって来るんだからね。男もだけどね。そうなると、運命の人とか、ソウルメイトとかと言って、騒ぎながら相手を探すか、巡り合う時を待しかないよね。大変だね。自分の中に、「女滅亡?」のタイムリミットがあるからね。

 俺だけかも知れないけど、「どこに転んでも、人間の人生なんて、そんなに面白くはないかなぁ」というのはあるけどね。まー、それならそれで、全体として、まだ人類滅亡の方がいいやな。

 世間の衆生は、人間は一人では生きて行けない、とかと言っているんでしょ、それなら、死ぬときも全員で死ねばいいじゃん、だね。あははは。

 えっ、あっ、そういう事?あの、自殺をするのにガソリンを撒いて、道連れを作る奴がいるよね。奴らはそういう事なの?。一人で生きて行けないか、一人で幸せに成れないから、死にたいんだけど、その死ぬのも一人は嫌だという事なのかな?。なんじゃ、そりゃ。で、幸せそうな奴が憎らしかった、などと理由を付けているのかな?。ふーん、かまってちゃんか。かまってちゃんが、努力して、それでも不幸だと、ひねくれた奴になるのかな?。どれだけの努力をしているかは人それぞれだけど、努力している分だけ、自分の「存在と生存の価値」を認めて欲しんだろうね。だけど、努力にも上には上がいるからね。普通に暮らしているだけだけど、人の100倍ぐらい辛抱している者もいるからね。そういう風には見えなし、想像もつかない場合の人もいるからね。自業自得なんて、とうの昔に超えている人もいるからね。

 もう時代は、「存在と生存の価値」が、無いのと同じになって来てるのかもね。だけど、自分以外の人に、「お前なんか、存在や生存する価値が無いんだよ」とかとやると、総すかんを食らうだろうね。これは難しいね。

 努力と「存在と生存の価値」の関係は、成功と失敗に伴う否定性が関係していて、結構、難しいね。まー、「成るように、成る」という感じだろうけど、正しく事が流れて正しい結果になるのには、時間がかかるよね。

 事の起き始めに、だいたいの結果と方向性は含んでいて、それが見えているんだろうけど、四の五のとやり取りやバトルを繰り返していくうちに、途中で、初めの因果律が見えなくなって、純粋性も無くなって、訳が分からなくなるんこと多がいいんだよね。で、のちの時代か歴史が検証するとかと言いながら、その時に、成功した者や勝った者が、自分の都合のいい嘘の歴史に改ざんするんだろうね。

 それでも、空性に蓄えた記憶には残るからね。スピリチャルで、その記憶を書き変える、とかという人たちが居るみたいだけど、それは、書き変えるの意味が違うね。あれはね、書き変えるんじゃなくて、空や空性(くうやくうせい)のエネルギーの流れで、浄化や昇華をすることを意味しているんだけど、どうも、自分に都合が良くなるように、勘違いをしている輩が多いいね。

 カルマが、罪なら償うためのエネルギー法則になるし、善き徳を積んでいるのなら、その徳が行くべきところに帰って来るという感じだろうね。その時に、利子も付くかもね。

 ただ、今は、無償の徳を積んでも、帰って来た時には、すり減っていて、半額以下にされている感じもあるけどね。10分の一ぐらいになる感じかもね。それよりも、摩耗させられている感じもあるね。そのようなことになると、自分の「存在と生存の価値」を、主張したくもなるよね。そのあげくに自業自得だとかと言われて叩かれれば、過去のカルマなんて、違うものに書きかえればいいんだ、みたいなことを思う奴も出て来るわな。

 これは、何処で間違えているのかなぁ。えーと、とどのつまり、そこまでひねくれるという事は、(どれほどの努力をしたかは知らないけど)努力が実らなかったか、成功しなかったか、失敗に終わったか、という事が、まず、あるんだろうね。その人の感覚としてね。つまり、自分の努力を実らせたいんですね。でも、上には上がいるからね。

 突き詰めると、自分の希望のようにいかなかった時や失敗した時に起こるエネルギー不足が、とても辛いという事だろうね。一人、ぽっつん、だよね。

 まー、人類の全員が一人一人完全に孤立していて、その人達の全員がトーナメント方式で勝ち上がって行くとして、最後に残るのは一人だからね。あとの負けた全員は、多かれ少なかれある期間はエネルギー不足で、悶々と過ごすことになるのだからね。

 現実の世界でも、国同士とか、何かのグループ同士で、トーナメントをしている感じだよね。最後に残るのは、一つの国かグループだね。で、負けた者同士で徒党を組んで大きなグループを作って、勝った一つのグループを倒しに行こうとしても、負けた者同士が組んで、より多くの範囲を動かそうとしたら、かなり難しいものがあるよね。負けて努力が実らなかったという不満から、彼らが徒党を組んでも、結局、まとまらないやな。不満(エネルギ不足)が原動力だからね。

 ゆえに、彼らは、もっともらしい嘘を吹きまくるようになるのかもね。OO主義(資本主義・社会主義)は全部その嘘に当たるだろうね。胡散臭いからね。SDGsも胡散臭いよね。結局、全部、負け犬の遠吠えなのかもね。負け犬だから残らないんだよね。つまり、いつかは人類滅亡だね。一人か1グループを残してね。

 そう考えると、このトーナメント的な仕組みは時間を超えてあるものだから、ノストラダムスが「人類滅亡」を1999年7の月と時間を限定したのは、間違いだったかもね。

 聖書の中では、イエス・キリストさんでも、人類滅亡?(裁きの時)の日時について、「それは、父なる?主なる?神のみぞ知る」みたいなことを言われているからね。予兆については、「親が子を殺し、子が親を殺し、兄弟が兄弟を殺し、民族に分かれて国同士で争う」みたいな感じの事が、書いてあったような、なかったような。。。まっ、個人でも団体でも複雑なトーナメント戦をやっているのございましょうね。

 人類滅亡までの時間の内で、ヒナタは好きな男、文ちゃんと、この複雑なトーナメントを戦いながら、、世の中に蔓延った負け犬の遠吠えみたいな嘘とも戦いながら、、幸せに暮らしたいんだよね。・・・無理だろう。尾崎豊の「アイラブユー」の歌で「今だけは、悲しい歌、聴きたくなよー」だね。

 ヒナタが、五十嵐を追いつめると第二の錠一郎になる可能性もあるし、あるいわ、五十嵐は、東京に行くとか言い始めるかもね。ヒナタは追いつめているつもりは、さらさらないんだろうけどね。

 そう言えば、るいも、錠一郎が東京に行った時に、手紙を送っていたけど、その手紙の内容は、応援しているとかと書きながら、効果としては、錠一郎を追いつめていたよね。だから、どっちに転んでも、「好き」で男を滅亡させるのが女子なのかもね。

 なんか、アダムとイブ(エバ)の関係もそういう感じのところが有るよね。イブの勧めで、アダムも命の木のリンゴを食べてしまって、その後、エデンの園を追い出されて、アダムは、地に働いて苦しんで、死に逝く運命を背負ってしまったんだからね。やれやれだね。

 このアダムとイブの命の木リンゴ事件を深く考察して、「存在と生存の価値」のレベルで考えると、「命(りんご)」があれば、「死」あるということで、「命(りんご)」が無ければ「死」も無かったという事ですね。そこには、透明な空(くう)が、有るだけなんですね。

 だから、好きなのに相手を滅亡させてしまうという事実を超えたければ、「命」も「死」も無くて、なんだか分からないけど、ただ空性のエネルギーを流していればいいだけなんですね。このエネルギー現象が、その人の「生存と存在の価値」ですね。

 よく言われることで、すとんと立っている姿だけでも「存在感」のある人というのが居ますよね。そいう人は、空性のエネルギーの流れる量が、周りの人よりは少しだけ多いいのかもね。エネルギー調節をして、「存在感」をコントロールしている人もいますよね。

 「だから何?」と言われれば、空性のエネルギーを流し続けていると、「生命(正確には命の元の光の粒みたいなもの)」が、どういう訳だか知らないけど、生まれるというか、始まるんですね。そして、その最も最初のものが、主なる神様の「命の元」なんだと、俺は感じているんだよね。これが、真実の意味での「生命」の誕生だね。それから、神様の意識と形?になるんだね。

 ちなみに、ミネラルから進化したという地球上の生命(生き物)たちは、神様が出現した後に、しばらくして物質界が出来て、そのだいぶ後に、地球上の生命(生き物)として、出現したんだろうね。創世記の神話の内容に似ているよね。同じだね。俺はそう感じるけどね。

 もう少し詳しく説明すると、空性のエネルギーの中で、この空性のエネルギーを流し続けて生まれる「生命(命の元の光の粒?)」に、さらに空性のエネルギーを流し続けると、意識が生まれて「命(いのち)」になり、さらに流し続けると「生き物」になるんだね。これが、さっき書いた初期の主なる神様かもね。つまり、空性のエネルギーの流れが最初にあるという事だろうね。

 これについては、聖書で言うところの、創世記第一章の3行目あたりにある「神の霊が水のおもてをおおっていた」という部分と同じでございましょうね。

 それで、聖書では、神様は「光あれ」と言われたんだよね。←この場面が、空性のエネルギーが流れ続けていると、一番初めに主なる神様の「生命(光の粒)」になる所だと俺は思うんだよね。そしてさらに、空性のエネルギーを流し続えていると、この光が、たぶん波のようになって、広がるんだろうと思うんだよね。ビッグバンみたいな感じだよね。光の波も、波動だから、意識とも言えるんだよね。その間も空性のエネルギーは流れ続けている訳だからね。

 そうなんだけど、俺が感じているのは、最初の光の粒そのものに神様の意識が生まれるという認識なんだよね。その後、神様の形というか、個性が生まれるんじゃないかなと思うんだよね。そう考えると、全体、日本神道でもキリスト教でも仏教でも、仕組みとしてつじつまが合うからね。

 たぶん、最初の光の粒に意識が生まれるのと同時に、光と意識がビックバンみたいに広がって行ったんだろうね。空性はすべてに行き渡っているからね。

 ゆえに、空性のエネルギーの流れが創造主なんだろうね。

 難しいから、もう一度簡単にまとめると、創造主である空性のエネルギー自体の流れは止まらないから、どんどん流していると、生命の光の粒が出来て、その光に意識が生まれて、何某かの個性や形になって行くんだろうと感じたんですね。その一番初めのものが、主なる神様なんですね。俺は、そう思うんだよね。

 まー、この辺が分って来ると、いつ来るか分からない人類滅亡(裁きのとき)も大したことじゃないでしょうね。

 じゃぁ、今までの人類たちの恋や、安子の恋も、るいの恋も、ヒナタの恋も、何なんですか?という話になるんだけど、「さぁー、詳しい因果律はよくは分かりませんけど(ドラマだしね)、でもしいて、現実に当てはめて言うとしたら、恋は、ご縁と業(カルマ)ですかねー」。

 いずれにしても、いい恋が、自分の「存在と生存の価値」の一部とかと感じているのなら、「存在と生存の価値」は空や空性のエネルギーの流れであり、どんな恋でも、ご縁と業(カルマ)の要素がいろいろとその恋に絡んでいると思われますから、空と空性のエネルギーの流れで清める事が、仕合わせに成るためには、重要な事にもなりますよね。だから、空気体瞑想をしましょう、、、そうなるんですね。あはははは。

 今日は、人類滅亡と、人類のより先に有った神様の誕生の話から、つらつらと考えるのに、取り合えず、この世で人間に出来ることは、空気体瞑想です、の一席でした。

 夢に向かって同じ努力をするのなら、最終的に無駄にならいように、空や空性のエネルギーを流して、清めながら、努力をした方がいいでしょうね。事が成功しなくても、進化として無駄にならないでございましょうからね。エネルギー不足にもなりにくですからね。大胆で安全第一の人生を送りましょう。さて、修法だよ。

  可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素という空気)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、息をして、透明な空に戻ればいいからね。

 透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。