おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどなどの意味です)。

 空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろに書いてあります。それが基本で、全てです。そこだけでも一読をお願いしたします。無料です。

 過去からのいろいろな瞑想法もありまして、それはそれで良いのですけれども、それらの元は、空や空性(くうやくうせい)です。空気体瞑想は、今、ここ、身の回りにある透明な空気を方便として、各種瞑想法の元である透明な空や空性に、入ろうとする瞑想法です。もっとも直接的な瞑想法とも言えます。

 時代は、この空や空性を明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われること」は、有りません。今を超えて行きましょう。その後は、その方の意識レベルと器次第です。

 自分の中心に「透明な空」を認識して、勇気を出して、進みましょう。

 

 カムカムエブリイバディ、見ていますか?。

 虚無蔵と五十嵐は、キミノジョウと左近役で、オーディションを受けている。その太刀まわりは、なかなかの迫力のようだ。

 そこへ、2代目のモモケンが、自ら虚無蔵とタテをすると言い始めた。モモケンはキミノジョウ役で、虚無蔵と激しくタテをしている。

 三太郎は、それを入り口のところで見ている。昔のとこだけど、三太郎は、初代のモモケンが出演した「妖怪七変化」を上映していた映画館で、2代目のモモケンと知り合ったようだ。二人が、まだ若い時だ。

 道場での立ち回りが終わって、2代目モモケンは、

「私は、父を超えるためにキミノジョウをするつもりだ。私の左近役を見つけなければならない。だから、虚無蔵さんに左近役は与えられない」と伝えた。さらに、

「虚無蔵さん。父は、あなたのことを、息子の私を超える役者だ」と言っていた、とも、伝えた。虚無蔵が、

「それが本当なら、早く言って欲しかった。屈辱感に20年耐え続けた」と言うと、2代目モモケンは、

「私は、スターだ。大部俳優に言えることはない。(支えてもらっているのは、スターの方でもある)」と優しく毅然として言う。その一言で、虚無蔵の顔から人生の力が抜けた。今までのトラウマから解放されたようだ。虚無蔵は、

「恐れ入りました」といい、弟子の五十嵐の事を頼んだ。そして、その場を去った。必要以上に目立たないけれども、いつも「切られ役」。その迫力が時代劇を支えているということだね。多くを語る必要はないやな。

 しかし、歳を取ってもクソガキの三太郎、あの分かったような、知っているような、一言、一言が、、、癇に障るよね。許せば許すほど、そういう感じだな。あはははは。適役だ。

 ヒナタが道場の片づけをして帰ろうとすると、2代目モモケンが声をかけた。話したいことがあるみたいだ。

 今日は、書くことがないやな。

 虚無蔵も、「虚無」になって20年だよね。何かが変わる時かもね。そして、去って逝くのかなぁ。どうだろうね。まっ、映画の世界だから、明日、何があるか分からないやな。「サンタクロースの物語に出て来る「真っ赤なお鼻のトナカイさん」のように、特別に虚無蔵が必要となる脚本があるかもね。だけど、もう、虚無蔵に「虚無」が無くなっているかもね。あらら。人生は、ちぐはぐで厄介だよね。虚無の無くなった虚無蔵に似合う役とは、なんだろうね。このままだと、虚無じゃなくて、ゼロ蔵だよね。あははは。彼に残るのはタテだけか。

 だけど、この当時の世の中では、時代劇がすたれている時だから、タテをする弟子を育成するのもなかなかだよね。弟子は、五十嵐ぐらいだよね。

 虚無蔵の心は『どうするんだよ』、だな。映画村は出られないけど、気分は一から歩き始めるしかないのかな。あっ、でも芝居は下手だもんね。切られ役の虚無蔵は、人生まで派手に切られちゃったなぁ。じゃぁ、映画村で外国人向けの「チャンバラ(タテ)道場」でも作って、その先生になればいいね。京都だから、外国人もたくさん来るだろうしね。そんなところかな。

 立ち直るチャンスが来るまでの20年間って、そういう周期があるような気が、俺はするんだよね。まー、心の内側の問題だから、なかなか大変な時期だよね。周りからは、甘えていると見られたり、バカにされたり、クソみそに見られている感じだからね。やっても、やっても、チャンスが勘どれなくて、目の前から通り過ぎて行って、後から気づくんだよね。錠一郎も、そういう風に見られる立場だよね。極楽トンボだけどね。

 責任感のある人が、特にそういう感じかもね。責任感のない三太郎には、こういうのは関係ないやな。奴は、落ち込むより、カッコよく見られたいタイプだからね。そういう人間たちの区別は、借金が平気かどうかで、判別できるかもね。

 三太郎は、人生の切られ役のくせに、カッコよく見られたいタイプなんだろうから、自分がピンチで面白くなかったら、そこから逃げる人だよね。「長男の甚六」という感じだね。

 三太郎が、安子の溜めた金を持ち逃げして、40年はまだ経ってないな。あと数年だから、安子とるいの人生をハチャメチャにしたことについての解決が、その数年の間に出来なければ、三太郎も寿命で償うことになるよね。それでも足りないやな。

 モーゼも、エジプトを出て40年間荒野に居て、寿命が来て死んで、それから、モーゼの民は新しい展開になっているからね。

 俺が思うには、モーゼが死んで30日間経った後、モーゼの肉体は消えたんじゃないかな?、、聖書には書いてないけどね。モーゼの墓が見つからないというのは、そういうことだと思うんだよね。どこかにテレポーテーションしたんじゃないかな。日本に来たのかもね。キリストさんだって、処刑されて復活した後、ガラリやで40日間ほど説法をして、昇天されて消えたんだからね。モーゼに、その死体の消える現象が起こっても、不思議はないやな。

 そもそも、モーゼの神が、モーゼに示した約束地(カナン?)は、現実の土地ではなくて、霊的な境地としての「約束の地」だと、俺には感じられるんだよね。

 事実、モーゼは約束の地には入れなかったんだよね。聖書の解釈?でのその理由は、モーセは、水が出なくなった岩に言葉で語り掛けなければいけなかったのに、その岩を打った、、だから入れなかったらしいんだけど、どうなんだろうね。

 その時の奇跡について、エネルギーの反応方面から、その状況を考察すると、モーゼは、ただ単に物質性に負けただけのように推察できるんだよね。岩に言葉で話しかけなければいけないところを叩いたんだから、それは、親が、わがままな子供(岩)に対して、語りかけることをせずに、いきなり引っ叩いたのと同じことだよね。子供(岩)としては、たまりませんよね。「今、水を出そうと思っていたのに」だよね。つまり、モーゼの意識では、その水の出る岩が、岩にしか見えなかったんだろうね。人間には当たり前だけどね。だから、モーゼの意識感覚が、岩という物質に負けているという事だね。分かるかなぁ。

 それと、俺が思うに、モーゼの神の言う約束地は、目の前に見えているカナン?の地ではなくて、本当は、浄土とか、仏国土(佛国土)とか、高天原じゃなかったのかな?もしも高天原なら、日本神道だから、モーゼが死んだ後、死体が消えて、日本にテレポーテーションをしていても、その可能性はあるよね。現在の日本神道の神話と比較してみて、「約束の地=高天原」と考えれば、日本の神話とつじつまが合うんだよね。で、一度、高天原に登ってから、モーゼは日本に降りて来たんじゃないのかな?

 能登半島(石川県)にモーゼの墓があるみたいだし、しかも、そのモーゼは583歳?まで生きていたらしいからね。だけどこの話は、偽物とされているらしい・・・・けど、終戦後の昭和20年代に、アメリカ人が発掘をしに来ているんだよね。なんで?。日本をよく調べているよね。そこで、モーゼの骨ができたのか、出てきてないのか、結論は、骨は出てないという話になっていて、今は、タダの言い伝えのような伝説になっているんだけど、俺は、それがどうもおかしいと感じるんだよね。絶対に誤魔化しているよね。

 モーゼの墓が日本に有ったら、大変だよね。先の大戦では、悪くもない日本が、どういうわけか「悪」だから、原爆を落として敗戦国にしてやったという事に、無理やりにしている訳だから、モーゼの墓が日本に有ったら、日本を貶めることが出来なくなるからね。あははは。発掘したモーゼの骨が、今もアメリカにあるんじゃないかな?。

 

 とぴょしもない事を言わせてもらえば、日本神道の神話で、高天原から降りて来た素戔嗚尊って、エジプトに生まれたモーゼだったのじゃないのかなぁ。聖書によるとこの地球では、モーゼ以上の人は出て来てないんだからね。俺はそんな気がするんだよね。兜率天のなどの天部でも、この世とは、時間の概念が違うから、この世の時間だとつじつまの合わないところも出てくるんだよね。それにこの話は、逸話によると宇宙船まで出てくる話だからね。

 もともとのモーゼは、暴れん坊だからね。エジプトに居た時も、理不尽を行うエジプト人を、二人ぐらい殺しているはずだよね。エジプトを出てからも、偶像崇拝をした者をたくさん殺したからね。モーゼは、激しい性格のようだよね。素戔嗚尊も高天原では、暴れん坊だったからね。それで、地上に降ろされたんだからね。性格が似ているよねぇ。でも、素戔嗚尊は出雲に降りているんだよね。とほほ。

 が、しかし、聖書の中の話で、だいたいの年代の調べがついているのは、エジプトにモーゼが居た時あたりからなんだよね。だから、ここに時代の始まりの何かあると思うんだよね。その前にもアダムとイブからの歴史はあるけどね。

 とにかく、日本神道にも聖書にも、荒ぶる神か人が、この世に降りて(生まれるて)来るパターンがあって、始まっているんだね。規則性として解るのは、そこまでだね。

 あとは、素戔嗚尊が倒した八岐大蛇が、何の象徴なのかが分れば、素戔嗚尊とモーゼが感覚的に繋がるかもね。八岐大蛇とは、ナイル川かな?エジプト王朝かな?ファラオかな?なんだろう。

 

 話は戻るけど、聖書の「約束の地」を考える時に、約束の地が霊的な境地だとした場合に、それらは、佛国土や浄土や高天原になると思うんだよね。

 佛国土は人間にも神々にも見えないから、神道系の聖書で言うところの約束地には当てはまらないと考えられるんだよね。ゆえに、同じ神道系の高天原だと考えた方が、ストレートなんだよね。神々には高天原が見えるからね。

 約束の地が浄土と考える場合は、浄土の定義があいまいでよく分からないんだよね。浄土は、物質が清浄な色界の事を言っているのだと思うんだけどね。??だな。浄土には、西方浄土とか、密言浄土などと呼ばれているところが有るらしく、種類があって、その種類があること自体を理由として、約束の地とは違うと思うんだよね。聖書の言う約束の地は、一つでしょ。

 とにかく、佛国土は、生き仏が行けるところだろうと感じているんだよね。まー、俺の感覚だと、佛国土に居る佛様は、死んでいる仏とは違って、生き佛なんだよね。

 日本神道の神々でもキリストさんでも、生きておられるからね。日本神道では、神様の名前に、OOの命(みこと)と付いていて、生きていますよ、という証明をしている感じだよね。キリストさんも、聖書の中で、弟子や信徒たちから「あなたは生きておられます」と言われているしね。

 究極の話として、生と死や存在と消滅を越えた上で、その意識が生きていることが、重要な事らしいね。

 まっ、虚無蔵も、錠一郎も、その意識が生きているうちは、明日に何が起こるか分からないよね。20年を過ぎたころ、あるいわ、40年を過ぎたころに奇跡が起こって、幸運がやって来るのでございましょうね。

 今日は、心の傷を抱えて、全てが虚無になって20年、あるいわ、40年経ちましたが、そろそろ奇跡が起こって、幸運が舞い降りて来ることでございましょう、の一席でした。さて、修法だよ。

 今日の修法は、恐れ多くも賢くも日本国と日本国民の分の福徳円満商売繫盛、技芸上達の弁財天尊様の修法だよ。

 可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素やプラナーなどの空気)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、息をして、透明な空に戻ればいいからね。

 透明な空や空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。