おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどなどの意味です)。

 空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろに書いてあります。それが基本で、全てです。そこだけでも一読をお願いしたします。無料です。

 過去からのいろいろな瞑想法もありして、それもいいですけど、それらの元は、空や空性(くうやくうせい)です。空気体瞑想は、今、ここ、身の回りにある透明な空気を方便として、各種瞑想法の元でもある空や空性に、入ろうとする瞑想法です。もっとも直接的な瞑想法とも言えます。

 時代は、この空や空性を明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われること」は、有りません。今を超えて行きましょう。その後は、その方の意識レベルと器次第です。自分の中心に「透明な空」を意識して、勇気を出して、進みましょう。

 

 カムカムエブリイバディ、見ていますか?

 ヒナタは、夏休みの終わりに、虚無蔵からバイト料を貰った。小銭ばかりだ。そして、翌日から、映画村の社員として、業務部で働くことになった。榊原の直属の部下だ。吉川晃司の歌が流行っている時代だった。

 ヒナタは、社員の服装をして、大部屋の役者たちさんとか、会社に来たお客さんに、お茶出しをしている。

 そんな時、榊原に頼まれて、お茶を入れて行ったら、モモケンが来ていた。モモケンは、大月という名字を聞いて、回転焼きの話から始まり、急に産気づいたるいを、病院に運んだことなどを話した。ヒナタは、家に帰って、食卓を囲んで、それらの出来ごとをるいと錠一郎に話をした。ところで、ヒナタたちの食卓は楽しそうだけど、いつもそこそこに質素だな。

 モモケンが、映画村に来たのは、映画村のコマーシャルを作るためだ。榊原がそのCMの台本を作ったのだが、その撮影の途中で、モモケンの親友らしい老人が、「これじゃ、だめだ」と言い始め、自分が取り直すとのたまっている。

 それで、斬新な明るい感じのCMを、その場で取り直した。この老人は、どうも行方不明になっていた、たちばな三太郎のようだ。安子の金を持ち逃げした兄だ。ヒナタは、知るよしもない人だ。

 いつものように、五十嵐は、虚無蔵に立ち回りの稽古をつけてもらっていたのだが、モモケンのコマーシャル取りが気になるらしく、稽古を打ち切って、CM撮りの現場に来た。

 モモケンは、テレビドラマのキミノジョウシリーズから、今度、映画化されるキミノジョウシリーズが始まると、映画村の人へ発表した。

 モモケンは、映画でも2代目キミノジョウになるみたいだ。その映画のタイトルは、虚無蔵の出演した「妖術七変化」だ。そうなると、五十嵐は、2代目の虚無蔵になるのかな?。へーーっ、なるほど。五十嵐は、妖怪の親分役だな。だったら、五十嵐は、気絶ヤギのままで引っ張って欲しかったな。あははは。まっ、いいや。妖怪らしいでしょ。

 しかし、この調子で行くと、錠一郎の復活はないやな。どう見ても、極楽とんぼのひも亭主が、板についているからね。結局、彼は中身が繊細で優しいだけなんだね。戦争孤児で浮浪児の割にはね。性分だな。しょうがないやな。

 その昔に、東京で錠一郎に何が有ったのかなぁ?。やっぱ、断り切れなくて、社長の娘と付き合ったのかな?。まー、だけど、耳が聞こえなくなっても、ベートウベンは、音楽を捨ててなくて、「運命」という曲なども書き続けたんだよね。耳が聞こえなくなると、頭の中の音しかないもんね。他の仕事をするにしても、耳が聞こえないと不便だしね。

 錠一郎は、トランペットを吹けなくなって、生きるための命を無くしたのと同じ状態になったけど、それでも、20年間生かされてみると、何かが変わると、俺は思うんだけどね。なにか、やり続けたことはないのかなぁ。「暗やみでしか、聞えぬ音がある、暗やみでしか、聞えぬ歌がある」と言うなら、「極楽トンボにしか、聞こえぬ音がある、極楽トンボにしか、聞えぬ歌がある」とは成らないかなぁ。・・・ならないやな。

 

 ところで、上映映画って、東映映画のことかな?うん?映画村って、東映が作ったのかな?・・・知らなかった。ヤクザ映画の東映なのに、京都かぁ。今、気づいたぜぇ。

 まっ、それなら、どチンピラの三太郎が居ても不思議はないやな。なるほどね。この辺は、実話に見えるよね。たいしたことはしていなくても、生きているだけで、人生はいろいろあるね。それが感動を呼べばいいんだけど、なんか面倒くさいね。

 錠一郎みたいに、適当にやっているだけのところで、少年野球の子供を相手に、極楽トンボをさせてもらっているのが、一番いいかもね。錠一郎は、「子ども相手に人の道、人生などを説く男、あーぁー」だね。吉田拓郎の作詞作曲で「我が良き友よ」というのがあるけど、錠一郎はそれだね。

 まー、つらつらと考えるのに、人間を、その言葉や姿形で観たら、それには、何某かの中身が見えているはずなんだけど、それでも、本当の中身は見えないという感じなところが有って、そこを突き詰めると、生きたいのか死にたいのか、存在したいのか消滅したいのか、という事になってしまって、それでもさらに突き詰めると、中心が透明になって、どうでもいいんだよね。人生の苦も楽もどうでもいいんだよね。これを、キリスト教的に言えば、主なる神様は耐えられない試練は与えない、という感じのいい分になるんだろうけど・・・・・それも、有っても無くても、どうでもいい気分もあるしね。

 いずれにしても、透明に気づいた後の話だけどね。そうなると、残るのは、透明より上の波動だけだからね。つまり空や空性(くうやくうせい)より上の波動だからね。そのようになった時に、中心のところは特に大切だよね。中心が透明な方がいいね。

 吉川晃司の歌が流行った時代に、何か、透明な感じで情に絡んだメロディーが、曲として流行ったかなぁ。記憶にないなぁ。もしあれば、錠一郎が作曲した曲かも知れないやな。

 調べてみると、吉川晃司がデビューしたのは、1984年なんだね。この年のヒット曲って、中森明菜とか松田聖子が多いいね。じゃぁ、錠一郎は、中森明菜の曲を書いたのかなぁ。どうだろうね。

 いずれにしても、三太郎が出てきたから一波乱はあるわな。相変わらずだものね。年を取って、余計に厄介になっている感じだよね。あははは。「いいね、三太郎。」「今さら、元に戻れねーやな。イケイケ。あははは。あーぁ~、だな」

 元はと言えば、安子が、るいが離れ離れになる原因を作ったのは、三太郎だからね。コツコツと溜めた開店資金を持ち逃げしたんだからね。それで、安子との親子の縁に裏切られたと思ったるいは、鳴らない風鈴になってしまって、それでも、やがて大きくなり大阪に出て、そこで知り合った錠一郎の孤独とるいの孤独の波動が合ってしまって、恋をして、るいの心の風鈴が成り始めたかに見えた、、、のもつかの間、今度は、錠一郎のトランペットが鳴らなくなったんだよね。上手く吹けなくなったんだよね。

 この直接的な諸悪の根源は、三太郎だよね。だけど、悪くもない日本が騙されて始めた戦争が、全体的な根源だだよね。ややこしいやな。性善説、自然説の日本を騙した奴が、一番悪いやな。

 もしかして、三太郎は、CMプロデューサーにでもなっているのかな。怪しいプロデューサーだな。東映のヤクザ界もどきと、在日系電通?のCM界かぁ、・・・ない話ではないなぁ。

 芸能界のスターは、世間の価値観から見れば、日の当たるの道を歩いているようで、しかしながら、本当のお天道様の道は遠い感じだね。スポットライトに照らされているだけの、暗やみのスターなんだね。いずれにしても、夜にしか、星(スター)は光らないという事でございますね。

 今日は、ヤクザ映画の東映、その経営する浮世離れした映画村に、浮世離れするしかない三太郎が、年齢を重ねて現れてしまいました、という一席でした。浮世離れにもいろいろあります。ヒナタと錠一郎の運命や如何に?だな。このクラスのストリー展開になって来ると、大人が楽しめるよね。さて、修法だよ。

 

 可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素という空気)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつでもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、透明な空に戻ればいいからね。

 透明な空や空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。