おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどなどの意味です)。

 空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろに書いてあります。それが基本で、全てです。そこだけでも一読をお願いしたします。過去からのいろいろな瞑想もありまして、それもいいですけど、それらの元は、空や空性(くうやくうせい)です。

 時代は、この空や空性を明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われること」は、有りません。超えて行きましょう。その後は、その方の意識レベルと器次第です。勇気を出して、進みましょう。

 

 カムカムエブリイバディ、見ていますか?。

 ヒナタは、映画のオーデションに応募したいと、両親に伝えた。錠一郎は「ええやないか」と言ってる。るいは、浮ついたヒナタを見て、反対のようだ。もし、オーデションに合格すれば50万円の賞金がもらえるようだ。

 るいの意見は、回転焼き一つでも、作る人の性格が分かると言いながらも、ヒナタは、世間の枠からはみ出しているようだから、「やるのなら、本気でやりなさい」と、しぶしぶ認めたようだ。(しかし最近、朝ドラのセリフが、固定化してきているよね。こんなもんだろうという、仕事慣れしたオヤジ的発想は、危ないね。エグったところがないやな。)

 ヒナタは、オーディション用の写真を撮ったり、作文を書いたり、着物での歩き方や茶道の作法を勉強したりして、オーディションに向けて、周りを巻き込んで大騒ぎだ。

 さて、「ミス・条映コンテスト」当日だ。たくさんの女子が、応募しているようだ。舞台の上で、自己紹介が次々と進んで行く。そして、ヒナタの順番が来た。

 ヒナタは、どうも緊張して、上がっているようだ。あんまり自分に自信がないようだね。開き直る感じでもないんだね。普通にダメな方の女子だよね。完成されていないと言えば、そうだけど、手間がかかりそうだよね。まー、分かり切っていることをやっていてもしょうがないけど、こういう役の決まっていないオーディションって、器を見ないとダメなんだろうね。

 そう考えると、まーなー、死にぞこないの極楽とんぼの錠一郎の、グダグダの存在を、ヒナタは、許さなきゃ暮らしていけないんだからね。娘としてね。

 でもまだ、錠一郎は酒を飲まないからいいやな。浮気もしないみたいだしね。しかも、最近は、バカにされても割と融通無碍になって来ているからね。

 というような理由で、ヒナタは、ひねくれずに進めば、デカい器になるかもね。だけど、それを世間が受け入れてくれるかどうかは、別問題だよね。ヒナタという人間の癖と観るかも知れないしね。まー、芝居の腕次第かもね。アイドルではないやな。なんか、難しそうだな。予備で合格かな?。磨けば光るのかなぁ。

 しかし、錠一郎は、このまま何ににも挑戦しないのかな?錠一郎は、磨き損ねて、光らなくなっちゃったよね。それと、条映映画って、大丈夫なのかなぁ。なんか、なんか先行き潰れそうな会社だな。時代劇のブームが過ぎて来ているのかな。映画そのものが大変な時なんだろうね。

 日本は、敗戦で、日本の精神が、根本から変えられて、しかも、「自由と平等」とかと言いながら価値観が多様化したわけで、その中での映画や小説とかは、伝えたい意見のジャンルが細分化されてしまった時代なのかもね。大ヒットは、なかなかだよね。

 もともと、映画や小説は、答えついては何も言わないんだけど、世の中の集合意識には価値観の統一感みたいな雰囲気が有って、その雰囲気をえぐって成り立つところのあるものだと、俺は思うんだよね。

 まー、そこが無いと、あとは、愚痴の正当化になって、お客は、それを支持するかどうかのところで、敵と味方に分かれるだけだろうね。味方が多ければ、視聴者は増えるかも知れないけどね。ブームという奴だろうね。

 映画も小説も、大衆がストレス解消をする為の、提示か、大衆を誘導するためのプロパガンダだね。そしてその成り行きで、最終的には、「生きていればいい事もある」、に落ち着くのかも知れないけどね。あとは、死んで再生するかだよね。聖書のストリーもそうなっているよね。

 昨夜の「鬼滅の刃・楼閣編」に出ていた悪鬼の兄弟は、何度生まれ変わっても、また、悪鬼になって人間を喰うつもりなのかね。彼らも、鬼になる前の人間の時に、人に買われて食われて、悲しみも感情も孤独も超えたもんだから、・・・抜け出せない鬼になったんだよね。言ってしまえば、楼閣で生きるとは、その生きているところが、畜生界や餓鬼界なんだね。夜の風俗産業って、畜生界や餓鬼界なんだね。

 朝鮮半島のGDPは、売春とかの風俗産業が、結構な割合を締めているみたいだから、あそこは、畜生界や餓鬼界なのかもね。売春を禁止したら、売春をさせろというデモが起きるんだからね。やばいね。関わらない方が身のためだね。下手に関わると、楼閣編の上弦の6が持っている、鬼の毒にやられて、動けなくなるね。回復の為には、ネズコのケッキジュツが必要になるね。

 楼閣編の鬼兄弟は、何度生まれ変わっても、人に食われて、闇に食われて、人間を食うのかな?そしてまた、人に食われて、闇に食われるのかね。人に食われて、人間を食わないというのが、難しいやな。ふぅーーーん、んっ。

 とどのつまりは、あの悪鬼の兄弟は、世間に関わったのが、間違いかもね。大衆に関わらなければ、世間並みの奇麗さも世間が言うような醜さも、関係ないんだからね。鬼なら食べなくても生きてい行けるんだろ。強くなるためにだけに、人間を食っている感じなんだろ。喰うのをやめれば、いいんじゃねぇ。そこかぁ。死と消滅だけだな。

 じゃぁ、鬼になったら人の来ないヒマラヤの、山の上の方の洞窟で暮らすしかないやな。自分の鬼が終わるまでね。鬼は世間と、世間は鬼と、かかわっちゃいけないんだね。世間の中で、喰うか食われるか、どんなに食いたいくても、人間を喰わないか、・・武士は食わねど高楊枝か、その辺だね。

 「自由だ、平等だ」とかと言っても、最後は、泥水の蔓延った大衆世間の中での、そこの辺の人の行動だよね。

 ここで問題なのは、日本の根っこが、敗戦によって変えられて、エセ自由とエセ平等という価値観が流布されて、おかしくなっているところだよね。でも、普遍的基盤の空や空性(くうやくうせい)は常にあるわけだからね。そこに気づけば、安心だよね。空気体瞑想の必要なところなんだよね。

 まともに生きて、考えて、世間の現実をえぐって行くうちに、何がなんだから分からなくなってしまったり、何がエセなのか本物なのかということについての正解みえないままに、痛い目に会ったり、痛い目に会いながら分かるようになるかも知れないし、あるいわ、痛い目に会って腐っていくのかもしれないし、、、・・・それは、昨夜の「鬼滅の刃・楼閣編」の悪鬼の兄弟とタンジロウの兄弟みたいな感じだよね。言えることはないんだよね。

 ハシラもタンジロウたちも鬼と言えば、鬼のようになって戦うことによってしか、勝つことが出来ないんだからね。静かに舞って勝つことは、まだ出来ないんだからね。つまりは、上弦の鬼とハシラの戦いは。悪鬼と善鬼の戦いだよね。

 わずかにある善の証拠を示しているのは、ゼンイツで、深い眠りの中に居て、しかも眠りながら戦っているんだね。「善」という普遍的基盤があるのだけは分かっているという事だね。善は、空と空性との共鳴率だね。寝ていてもそれに動かされるんだね。ここだね。ゼンイツは起きていれば、誰かの「善な心」に甘えたくなる感じだね。あははは。悪を終わらせてやるのも「善」かもね。

 日本と日本人は、「善」をGHQによって、眠らされたんだろうね。その片棒を担いだのは、インチキな自由と平等を掲げたエセ左翼と日教組だろうね。文部科学省もかな。バイト左翼だし、ビジネス反日だからね。動かしているのは、金だね。空や空性ではないやな。

 ところで、朝ドラの錠一郎は、アメリカナイズされながらも、精神は、眠ってはいないし、腐ってもいないな。常温で保存しているコンニャクのようになっているな。コンニャクはビニール袋を開けると、少し匂うんだよね。水に浸して洗わないといけないやな。

 今の日本は、コンニャクになっているのかもね。コンニャクは97%が水分だからね。水は命の象徴だね。日本は優しいね。

 コンニャクは、袋を破って、塩を塗りこんで、お湯で30分ぐらい茹でると余計なものが取れて、美味しくなるらしいね。下ごしらえをすると使えるものになるんだね。

 日本のぐだぐだと優しい感じのするエセ自由とエセ平等も、塩でもんで熱湯で茹でないといけないのかもよ。下ごしらえだね。楼閣編で、ネズコがやった毒消しのケッキジュツは、塩と熱湯茹でだったんだね。タンジロウも伊之助もハシラも回復したもんね。塩揉みをして、熱湯で茹でて、コンニャクに入っている水酸化カルシウムや炭酸ナトリウムも除去して、コンニャクようになった日本、その中の水分を入れ替えて、使えるようにしないといけないのでございますね。

 今日は、日本回復の為のケッキジュツは、塩もみと熱湯風呂です、の一席でした。ケッキジュツだけどね。錠一郎も、そろそろ、塩もみをして、熱湯で茹でてみたくなるよね。塩は、全ての川の水が混じった後の、「真実」かな。熱湯は、火傷をするようなほどの命の熱さだね。綺麗に舞うには、まだ少し早いかもね。さて、修法だよ。

 可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素という空気)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、透明な空に戻ればいいからね。

 透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。