おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って、書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどの意味です)。
空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろにあります。それが基本で、全てです。そこだけでも、一読をお願いいたします。いろいろな瞑想もいいですけど、それらの元は、空と空性(くうとくうせい)です。時代はこれを明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われるとこと」はありません。超えて行きましょう。あとは、その方の意識のレベルと器次第です。
がっちりマンデー、見ていますか?
今日は、儲かる地元スポーツだ。
まず、川崎ブレイクサンダースだ。怪しい。川崎と聞くだけで、怪しいやな。バスケットボールのチームだ。3年前は、観客席がガラガラだったんだね。それを、DeNAがテコ入れをして、集客率を上げたんだね。会社帰りのサラリーマンや子供もターゲットにしたんだね。武蔵小杉に集中して、宣伝しているんだね。要は、盛り上がって、楽しめるようにしているんだね。選手たちだけに会場の盛り上がりを頼っているわけじゃないんだね。カープの応援もそうだよね。半分、インチキだけど、アドレナリンの脳内噴出で楽しめれば、それでいいんだろうね。レジャーは、ストレス解消だからね。
次、オオカミだって。Piayarというアプリがあるんだね。中学生とかの試合を、テキスト情報として、リアルタイムで発信しているんだね。映像が無くても、何とかなるんだね。応援は繋がりなんだね。母校の試合とかの情報が入ると、なんか繋がりがあるようでいいよね。小さな青春がそこにあるんだね。
次、高知競馬だ。売り上げが20倍以上に伸びたんだね。午後の3時から夜の9時ごろまでのナイター競馬をしているんだね。昼間に他所の競馬場で負けた奴が、スマホとかで、参加してくるんだね。弱り目に祟り目の、博打うちだね。あはははは。やめられないんだろうね。あと、最終レースでは、全く勝てない馬同士を集めて、一発逆転レースを開催しいてるんだね。これは、面白いね。なんか、どんでん返しが有りそうだからね。博打は、そこだよね。なんかありそうだから、今が、勘だけで変えられるような気がして、面白いんだよね。
だから、博打が流行るという事は、今の自分の状況を変えたい人間が多いいという事かもね。で、その方法が、金への魅力と勘と予想なんだろうね。その上で、一つでも当たることがあると、喜んで、その喜びがまた欲しくて、博打の依存症になるんだね。面白いね。
という事は、とりあえず、大した努力をしないで、今の自分の置かれている現状や、自分を変えたいんだね。たぶん、意識はしていなけど、その人は、『苦しい』という感覚の、不満があるんだろうね。だけど、自分じゃどうしようもないから、アドレナリンが噴出する楽しいところに行きたいんだね。
しかしそれだと、博打をしても負けるわな。たぶん、コツコツと積み上げるということが出来ないんだろうね。そこが苦しんだからね。そこから逃げたいんだろうね。だから、博打依存症は、誰かに自分の人生を積み上げてもらいたいんだろうね。それが馬でもバイクでもカードでもなんでもいいんだろうね。
まぁー、競馬の馬もそうだけど、確かに、競技をしている人は、コツコツと訓練や練習をして、その後に現場に出て、勝負しているんだからね。そういう人に、博打人は、お金を廻しているんだろうね。公営ギャンブルだから、黒字のお金は、公共の何かのために使うんだろうしね。赤字だと、話にならないやな。こりゃー、この構造って、どうにもならないやな。
ちゃんと、コツコツと予想が出来る人間だったら、仕事でも、ちゃんとやっているだろうしね。そういう人の博打は、遊びだよね。意味なくお金を捨てる遊びだよね。そんなんだったら、生命力の有る神社やお寺へ、寄付やお布施をした方が、あの世の法則的には、余程、効果があるよね。だけど、現世利益を求めたら、商売になるから汚れが多くなるよね。
お金や勘や予想も、純粋さが無いと、あんまりいい結果には届かないやな。寄付や布施は、空と空性(くうやくうせい)においての、純粋性のレベルが有ってこその反応のものだからね。
競馬でも「これしかない、この一点買いだ」というのはあるけど、その一点が、純粋であればまだいいけど、もし一途というのだったら、そこにのめり込んでいるだけだから、結果として消耗するだけだろうね。博打で、借金まみれと言うパターンだね。病気になると、ギャンブル依存症だね。あははは。
そういう人は、元々が人並みの努力が出来ないんだろうから(自分では頑張っているつもりだし、絶望的被害にあっているつもり、なんだろうけどね)、破滅の為に、周りに上手い嘘をついて、金を借りて、博打に向かって努力している感じなんだろうね。この辺の嘘ツキって、凄いよね。負けても、負けても、痛い目に会っても、痛い目に会っても、自分が何処かで正しいと思っているし、どこかで10ミリ以上は、世間がなんとかしてくると思っているみたいだしね。俺なんかは、感覚的に世間が1ミリでも何とかしてくれると思ったことは、まず、ないな。ただ、これは、俺の周りの世間がするべきことだろう、とは思っていたことはあるけどね。世間は、するべきことを完全にするほど、そんなに甘くはないやな。むしろ、大したことの出来ない世間の方が、俺や誰かに甘さを求めている感じだよね。そいう世間は、俺の事を甘えているように、見るみたいだね。変。
そう考えると、まっ、博打で、現状を変えたくもなるよね。
そんなこんなを全部すっ飛ばして、言ってしまえば、アホな人間の苦し紛れの、その打開策が博打なんだろうね。そのあと、金もないにのに行くところは、酒とセックスの快楽だけかもね。その後の人生は、女なら風俗だな。男なら詐欺師だね。セックスと詐欺とお金と博打だね。そんでもって、大きな話をしていると、自分が強くなったような気がして、世の中を変えたいとかと言うんだろうね。
あれれ?、これって、反日・破日系の野党の政治家じゃん。あははは。自分を棚に上げて、金が欲しいし、社会を変えたいんだね。そのまんまだね。
そうか、ギャンブル依存症の奴は、自分の事は棚に上げて、自分の事はどこかで正しいと思っていて、しかも、世間がいつか何処かで何とかしているという淡い思いと考えがあって、とりあえず、お金が欲しくて、さらに今の自分が居る世間を変えたくて、巧みな嘘をつきながら、自己が壊れて、社会を壊して行っているんだね。そのまんまだね。この、そのまんまについての、自覚も無いんだろうよね。自覚があっても、自分を誤魔化す理由を見つけるだけかもね。なるほどね。
じゃぁ、そう言う事であるのならば、起きて来る現象は、例えば、スポーツ観戦やその応援の雰囲気で熱くなっているのと同じだろうから、いずれにしても、そこで盛り上がって、結末は泡沫の夢みたいなことになる現象だね。どうせ消えて行く泡なのに、コツコツと努力なんかはしないだろうし、それより、今、盛り上がって何が悪い、ということになりますよね。困りましたね。
コツコツと努力をしないでも、世の中と自分が変わっていく方法を見つけないといけないんだろうね。
どうせ、完璧には出来ない人間だし、役立たずの人間なんだから・・・自分にも他人にも、嘘をついているつもりのない、という噓つきなんだろうしね。あーぁ~なゴミだな、マスゴミだな。あははは。なんか、いい感じで当たっているな。どうすりゃ、いいんだよって、感じだね。
まっ、感情的には、『消えろ、消えてくれ』だな。「元の透明に帰れ」だな。
だけど、もう汚れていて、消えることも出来ないし、透明にも成れないだろうね。自分で自分を苦しめるか、世間に苦しめられるかしか、方法が無くなくなっているのでしょうね。で、苦しみたくないから、その苦しみを人に押し付けるんですね。その後は、さらに自業自得になって行くのでございましょうね。でも、その自業自得をも、人に押し付けるというのが、今かもね。努力して、自分で自分の首を絞める感じだね。
結論としては、そういう輩や人間全般に、自業自得の自覚を持たせなきゃいけないんだね。自業自得の自覚を持たせるには、瞑想(空気体瞑想)でもして、自分を観るしかないやな。そして、今の現実とは違うところの妄想によって、自分を作っているという事実に気づかないといけないやな。勘違いをしている自分を知ることだね。迷える子羊が多いいから、世の中の集合意識も目覚めにくいよね。自分も世の中も、眠っていて勘違いをしていれば、予想も当たらないやな。それでなくても、競馬とかは当たる確率が悪いのにね。
人間は、その夢に届く確率が悪い時に、マボロシを追いかけるんだね。それが、博打なんだろうね。マボロシは、追っかけないで、見るだけにした方がいいやな。
つまり、結果として、マボロシを金にしているのが、博打とか、宝くじなんだね。凄いね。マボロシを売っちゃうんだからね。絵に描いた餅を、「食べれるよ」と言って売っているのと似ているね。まー、絵は紙だから、食べられないことはないけど、美味しくはないやな。
餅を食べたかったら、もち米から作らないといけませんよね。天国に行きたかったら、自業自得を知らないといけませんよね。マボロシを追っかけて博打に依存するほど、この世の中が嫌だったら、自業自得を知って、業を浄化して、天部や天国へ行けばいいじゃないですかね。そんなところですかね。
今日は、絵に描いた餅は食べれませんが、餅を芸実的な絵にすれば、お金が入ってご飯が食べられます、の一席でした。こういうのも自業自得でしょうかね。さて、修法だよ。
可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素という空気)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、透明な空に戻ればいいからね。
透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。