おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って、書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどの意味です)。

 空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろにあります。それが基本で、全てです。そこだけでも、一読をお願いいたします。いろいろな瞑想もいいですけど、それらの基本は、空と空性(くうとくうせい)です。時代はこれを明らかにするところまで来ました。そこにしか、本当の意味での「救われるとこと」はありません。あとは、その方の意識のレベルと器次第です。 

 

 カムカムエブリイバディ、見ていますか?。

店に来た若者は、なかなかの無礼者で、ヒナタは、忍の一字で対応した。彼は、目つきがきついみたいだ。ヒナタの甘えているところも突いて来る。ヒナタは、彼が帰った後に大憤慨だ。女子だね。

 桃太郎は小学校の一年生だ。入学記念の写真を撮っている。ヒナタは、高校を卒業して就職するみたいだ。家に大学へ行くためのお金の余裕がないと知っている。ヒナタは女子だけど、女子って、分かっているようで、自分の方向からしか、物が見えてないようだね。その見方が、当たっていればいいんだけど、女子の口は、思うままにしゃべるから止まらないし、全体、そういうことになってくると、見方が違っている場合は、自分の将来を、自分の意識しないところで、自分のおしゃべりによって、潰しているところが有るよね。ヒナタよ、本当は、もう勉強をしたくないだけだろ。。。

 ヒナタは、友達の一子やサヨとおしゃべりをしながら、どんな仕事をしたらいいのか分からないと言っている。そうしたら、「回転焼きを焼いてみたら」と言われた。それで、ヒナタはるいに頼んで、回転焼きを焼いてみた。結果は、ぼろぼろの饅頭が出来ただけだった。作り直して、晩飯だな。

 ヒナタは、自分のふがいなさにショックを受けて、泣きながら、映画村にたどり着いた。そこで、役者募集の張り紙を見て、「これだー」とかと、思ったみたいだ。どうも『見つけたー』と思ったらしい。

 あのーー、女子の行動って、こんな感じがエッセンスだよね。だいたいの行動がそうだよね。もちろん、その元というか原動力は、生き残るためのものだけど、、、そんでもって、上手く行かなかったら、「私は間違えてないでしょ。どうしてこうなのよ」と思うんだろうね。凄い生き物だよね。それが一般的なんだからね。

 場面が買い物だったとしても、小さな「これだ」と感じるのが、普通の場合の判断基準で、女子の行動なんだからね。女の本能的勘なんだろうけど、男の勘とは少し違うよね。男は、女子の勘より、少し先を踏まえた何かを掴もうとしているのかもね。それは迷いかも知れないけどね。

 そのように見ると、キャン、キャン、ぱん、ぱん、弾けている感じのエネルギーの流れが女子なんだね。軽いと言えば、軽いんだよね。一生懸命と言えば、一生懸命なんだよね。「今」と言えば、「今、ここ」なんだよね。

 つまり、女子という質があって、そのいい方だけを見れば、女子は、現実のいい方だけを見て、今を一生懸命に、こだわりという重さに囚われることなく、前向きに生きているということになるんだね。素晴らしいね。で、それは、どうかすると、悟っている覚者のようにも見えるんだよね。だけど、全然違うんだよね。ただの女という生き物なんだよね。

 いやぁ、だから、あの饅頭を買いに来た若い男が、本当はああいう目つきではないだろうけど、ああいう目つきの理屈の在りそうな陰険な感じになるのだろうね。俺もなんかも、スマホの店にいって、気分がああいう感じになる時があるからね。本能的に、薄く危害を受けていると感じがしているんだよね。

 あの若い男にとって、るいはおばちゃんだけど、「危害」を感じる人ではなかったんだろうね。まー、若い男もそうだけど、男は世間の中で、見えないように、それなりではあるが、戦っているからね。勝つためだけに戦っている感じでもないんだろうけど、基本は戦いの為の言葉や動きのような気がするな。女は、戦いではなくて、生きるための損得と、女の中の勘で発想した言葉をしゃべりながら動いているんだろうね。

 だから、そういう人たちの社会を保つためには、上記のような男と女の動きの仕組みや意味をよく理解して、その上で、社会のシステム作りをしないといけないんだろうね。単純に男女平等だとかと言っている感じだと、心にも社会にも、いろいろなことが足りなくなるだろうね。「愛が欲しい」になるわな。

 そして、愛が欲しい男と女だから、いい調和をしなくなって、幸せじゃなくなるだろうね。まともに、やっても、やっても、貧しくなる感じもあるだろうね。

「働けど働けど猶わが暮らし楽にならざりぢっと手を見る」と石川啄木が短歌で読んでいたけど、あれだね。まぁー、啄木は女郎屋通いの浪費家らしいし、薬でもやっていたのかな?薬は太宰治か。稼いでも、稼いでも、貧しいやな。

 うん?、なんか、この短歌の虚しさは、派遣社員を制度化した、現代に通じるものがあるかのかもね。つまり、石川啄木もそうだけど、男と女がいい調和をしなくなると、働いても働いても、貧しく成るのかもね。そうすると、金や土地や技術を取りに行くしか方法がなくなるんだろうね。そんな社会は、賄賂とハニトラで汚れることになるよね。つまり、汚れた金と汚れた快楽で、なぁーなぁーで、うまい汁を吸おうとするんだね。そしてまた、男と女の調和が汚れるんだね。貧しくなるんだね。ジャブ中と同じだね。

 賄賂系の金とハニトラで、商売も回らなくなるし、やがて、国も潰れるんだね。

 例えば、中国の魏・呉・蜀の三国志の後の晋も長続きはしなかったんだよね。原因は、皇帝が、賄賂と酒と女たちにうつつを抜かしたからだよね。いわゆる、男と女の関係が汚れたんだね。いい調和をしなかったんだね。ドロドロの調和をしたんだろうね。

 まー、だから、自分よりも強い国を潰そうと思ったら、賄賂と女と酒で、どろどろの調和をその強い国に押し付ければ、内部破壊をして行くという事かもね。時間がかかる作戦だけどね。そこまでしても、結局は自分の国にその業が帰って行く感じだけどね。半島とか中国のやり口と現状だね。潰れることも含めて、何もかもが止められないよね。その業に加えて、自分らは、危ない賄賂も渡したし、女も世話したし、そういう努力をしたのだから、自分らは被害者だといっているんだろうね。

 それは、えーとね、やっていることが、いい調和という法則に合わないからダメなんですね。そこが分からないから、やがて潰れて行くんですね。もし、潰れないために勝とうとすると、気強いふりをして、力技で勝負することになるのでしょうね。それは、ドロドロのストレスがたまった後の、戦争だね。

 そこまで行くと、呪われたロスチャイルド家やロックフェラー家などの戦争商売人の出番だね。その様子を俯瞰して観ると、つまりは、戦争商売人が戦争を起こして儲けるためには、賄賂とハニトラと情報操作を繰り返せばよくて、それによって、世の中にストレスが増すから、戦争が起こって、戦争商売人は儲かるという事でしょうね。

 そういえば、資本主義世界のロスチャイルド家と社会共産主義世界のマルクスは、実のところ、親戚らしいんだよね。ニートのマルクスがマルクス理論とかを発案したり、政治家をしたり出来るわけがないから、この親戚関係という情報は、事実だと俺は思うな。

 詰まるところは、昔から、両者が組んでいて、彼らは、世界を騙すために自作自演のシステムを構築していて、やがて来る戦争での金儲けを楽しみに、そのシステムの運用が行われているという感じだね。莫大に金がかかるけどね。たぶん赤字だろうね。あははは。

 自作自演の影響で、調和が汚されているから、貧しくなるだけだね。それだから、大衆から、税金によってたくさんのお金を搾り取ろうとするんだろうね。日本もそのシステムにハマっている感じだね。だから、身動きをとりにくいのかもね。

 法律の網を潜り抜けて悪い事をするというホワイトヤクザというのが有ったけど、ホワイトマネーロンダリングというシステムが、日本のどこかにあるのかもね。金と女を使ったドロドロの調和の方法だね。

 今も昔も変わらない、そういう世の中に対して、石川啄木とか太宰治とかの半分純粋な(壊れた?壊れることを恐れない)芸術家?が、世の中を捨てきれずに絡んで、「はたらけど はたらけど猶(なお) わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」になったんだろうね。

 るいと錠一郎は、半分浮世離れした饅頭屋だね。その子供のヒナタが現実の世界を生きるとは思えないやな。やっぱ、映画村だな。映画の世界は、ドラマという浮世離れしたステージがあって、加えて、俗にいう村社会だったんだね。村長は、映画監督だね。なるほどね。ヒナタは、本能的にそこに目を付けたんだね。

 「浮世離れ」と「日の当たる道を歩く」って、何なんだろうと思うね。浮世離れは、暗やみではないやな。暗やみを歩いているのは、浮世の中で、どろどろの調和の中を歩いている人たちや大衆だよね。

 そうであるのならば、ヒナタは、浮世離れした映画村で制作される映画の中で、大衆に向け、なるべく清浄な調和を示して、日の当たる道を見せることになるのでございましょうかね。お芝居でございますけどね。やっぱ、俺はー、ヒナタには、吉本新喜劇だと思うけどね。

 今日は、京都、太秦の映画村か、それとも、大阪、難波の吉本新喜劇か、ヒナタの明日は、どっちだ、の一席でした。いずれにしても、昔の女子である安子とるいは、男に自分のいい印象を残して、いい感じの男を捕まえるのが上手かったな。そこはいがめないな。

 男と女のいい調和とは、アメリカナイズされた今の時代だからこそ、男は日本男児生き方の道、そして、女は大和なでしこの生き方の道なども、学習して、そこにある男と女のいい調和を知って、幸せ感も知って欲しいやな。それで、日本男児と大和なでしこは、家族ごと幸せに成りました、という事でございましょうかね。

 ちなみに、男と女のいい調和(生命的進化の為の命の調和)も、元は空や空性(くうやくうせい)でありますから、当然、空気体瞑想の中にあります。分かるかな?。さて、修法だよ。

 可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素という空気)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、透明な空に戻ればいいからね。

 透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。