おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って、書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどの意味です)。空気体瞑想のやり方は、文章の終わりごろにあります。それが基本で、全てです。そこだけでも、一読をお願いいたします。いろいろな瞑想もいいですけど、それらの基本は、空と空性(くうとくうせい)です。そこにしか、本当の意味での「救われるとこと」はありません。あとは、その方の意識のレベルと器次第です。 

 

 カムカムエブリイバディ、見ていますか?。

 時代は、朝ドラの「おしんの時代」だ。何年ごろかな。ヒナタが高校野三年生という事は、11歳だったんだから7年後ぐらいかな?。1976+7=1983年、昭和58年ぐらいだな。俺は20代半ばごろだな。

 るいの二人目の子供も大きくなっている。桃太郎と名付けたようだ。5歳ぐらいの設定だな。ヒナタと友達の一子は、高校生で進路などを考えている時期だ。電気屋の吉之丞?も電気屋を継ぎたくなくて、進路にぶつぶつと言っている。

 るいの回転焼きは、順調に売れているようだ。しか、錠一郎は相変わらず、ぶらぶらと極楽トンボだ。あはははは。トランペットはどうしたんだよ。

 ヒナタは自分の進路について、何も見えてなくて、少し焦って不安なようだ。そんな時は、太秦の映画村に遊びに行くようだ。しかし、そこも、子供の時のような気分で、楽しくて、気が晴れるようなことはない。

ヒナタが、自分の将来について、アンニュイ気持ちで店に帰ると、るいに店番を頼まれた。店番をしていると、若い男が回転焼きを買いに来た。「いつものおばさんは?」と聞いている。ヒナタは、ちょっと出かけています、と言いながら固まっている。相変わらず、器用じゃないヒナタだ。安子とるいは、男にさりげなく自分を売り込むことついては器用だったけどね。るいもヒナタに饅頭ぐらいは、焼かせてみないといけないよね。小豆も煮たりしてね。

 その場合、ヒナタがしたいか、したくないか、とかという問題じゃなくて、出来るかどうかだけは、見極めておかないといけないよね。どうせ、青春時代は親離れの時期なんだから、親のやっている仕事が、どんなに良くても、だいたいの子供はいいとは思わないやな。親だって、子供が小さい時から、自分の仕事については、なにがしかの愚痴は言うだろうし、それを聞いている子供が、素晴らしい仕事だとは思わないだろうしね。悪い話だけが、印象に残るからね。そうなると、その仕事をやりたいとは思わないやな。親離れの時期だしね。あと、継がせるための方法としては、子供のころから、「この仕事を継ぐのよ」って言い聞かせて、子供を洗脳しておくしかないやな。その為にも、出来るかどうか、素質があるかどうかを調べておかないとダメだよね。

 例えば、百姓はつまらん、百姓は儲からん、百姓はしんどい、などとばかり言っていると、そりゃー、子供は家も農地も継がないで、都会に出てしまうわな。水が合わないのにね。

 俺に言わせれば、どの親も、一生懸命のようで、ぼぉーっ、生きているよね。それで、農村が過疎だとか言っているんだろ。この感覚が何とかならないかなぁ。今頃は都会から、食い物さえ作れれば生きていけるからという事で、田舎に移住する人が増えたみたいだけどね。それって、人間が生活に追い詰められて動いているだけだからね。いい傾向じゃないよね。変な政治だ。

 昔は「上見て暮らすな、下みて暮らせ」というような、あいつよりはまし、みたいな価値観があったんだろうけど、それもどうせ、「目糞鼻糞を笑う」だからね。そういう変なプライドをくすぐるんじゃなくて、「それでも、まー、これが自分の人生だったんだ」とか、「これで、よかったのかも知れない」と思えるような、なんかの価値観はないのかね。その上で、若ければ、体力がそれなりに有るわけで、明石家さんまさんが、むかし言っていたように「生きてるだけで、丸儲け」とかと思えるようにもなる訳だろうし・・・ね。まー、さんまさんの場合は、ボロボロのぼろぼろになって、そこの感覚に行き着いたという感じで、イジケ交じりの開き直りの言葉だろうけどね。

 そいう方面の感じじゃなくて、「(絶望しかなかったけど)それでも、これで善かったんだ」と思えるような人生観だよね。年を取れば、善くも悪くもあの世が迫って来るし、そう思うしかないんだろうけど、欲望とは違うところで、ある種の満足感は欲しいよね。

 またわ、その人生で馬鹿をしたと思えば、反省して償うしかないわけだしね。あの世の地獄も天国も、天然のダルマのエネルギー反応として有るわけだしね。

 もしそれらが無いと言うのなら、エネルギー反応もないわけだから、消滅があるだけだな。そうなってしまうと、とりあえず、地獄から天国まで通してみて、要らない人間だよね。存在しなくていい人間だよね。仕事も息も何にもしなくていいよね。要らないんだからね。必然的にそうなるわな。あははは。

 ヒナタだって、一子だって、吉之丞だって、何某かの成功が出来ればいいと思ってもいるわけだし、それは、何某かの満足があればいいという事だと思うんだよね。

 錠一郎は、トランペットが吹けなくなって、絶望して極楽トンボになって、もう長いやな。すでに40代だよね。錠一郎は、「それでも、これで良かったんだ」と死ぬときに思えるのかなぁ。悪い事はしてない感じだよね。まー、そのものズバリ、「生きているだけで丸儲け」と言えば、物質的には成り立ってはいるよね。

だけど、神様からか、天然のダルマに「錠一郎よ、浮浪児から、もう一度、この人生をやれ」と言われたら、どうするんだろうね。るいさえ居れば、「ハイ、ハイ、喜んで」とかと錠一郎は言うのかね。言えないこともないだろうけど、そういうことを考えないのかな?。それも、どうでもいい気分かな?

 だけど、本当にどうでもいいのなら、なんで、トランペットが吹けないんだろうね。どうでもよくてこだわりがなければ、吹けるだろう。なにかが恐いだけか、、。

 錠一郎は、浮浪児で半分ニートだな。何が怖いんだろうね。一度は、絶望して自殺しようと思ったわけだし、「死」なんてどうでもいいんじゃないかな?それとも、余計に怖くなったのかな?。そういえば、「簡単に、俺の事を解ったとか、言うな」と言って、親身になってくれた人に対して、よく暴れていたよね。

 錠一郎にとって、分かり合えるための物が、唯一、あるとしたら、それが音楽だったのに、トランペットだったのに、それが無くなったという事か。だから、るいとのつつましやかで浮世離れした生活が、錠一郎にとっては、分かり合える感じのする唯一の砦なのかも知れないな。

 錠一郎の迷い?は、孤独とも違うんだよね。そんなものは超えている感じだしね。通じる瞬間が欲しいんだね。音楽の世界で例えると、音と共ににある人生の調和だよね。

 昔に行われたトランペットの大会の時に、トミーと錠一郎が同点になって、セッションをして決着をつけたことがあったけど、あのレベルの通じ方がいつもあれば、錠一郎も、「この人生は、それでも、これで良かったんだろう」と思えるのかもね。そこかぁー。。。

 トミーはどうしているんだろうね。錠一郎はトミーと親友ではないけど、とりあえず、トミーのような音の仲間が必要なのかもね。映画で言うと、あの野球の映画だった「フィールド・オブ・ドリームス」だな。あれだね。あっ、桃太郎は野球をやっているな。

 あれーー?、この作品はオリジナルじゃないのかな。モデルがありそうだね。という事は、錠一郎は、日野皓正かな。違うよね。今調べたけど、日野皓正は浮浪児じゃないし、違うわな。やっぱ、このドラマはオリジナルなんだね。あっ、錠一郎は、少年野球の監督もどきをやっていたから、その流れで、桃太郎は野球をしているんだね。そういう事か。あんまり深くはないやな。じゃぁ、このままの一生で、錠一郎は極楽トンボか・・・。あーぁ~、だね。

 錠一郎が「それでも、これで良かったんだよぉー。るいありがとうね」とかと言いながら、適当に死なれても、なんか、やり切れないし、情けないやなぁ。俺は、そう感じるけどね。どうなんだろうね。

 つらつら考えるのに、やっぱ、錠一郎は、あの海で死なせておいてやれば、よかったんじゃないのかなぁ。。。どうなのかぁ~。錠一郎に流れているのは、現実には戻れないという、現実なんだろうね。考えてみるのに、その役に、オタギリジョーは的役だけどね。あははは。オダギリジョーは、この役で、なんか自分の人生が、救われた感じのところもあるんじゃないかな。どことなく、そう思うね。朝ドラは別格だしね。オダギリジョーのこっちのストリーの方が面白いな。現実だしね。あはは。

 錠一郎は、「それでも、これで良かったんだ」と思えるのかね。るいが男なら、そう思えそうだけど、女だからな、損をしたくないし、現実的結果が欲しいかもね。錠一郎の感謝だけじゃ、足りないかもね。どうなんでしょうね。

 そもそも、錠一郎がるいを好きになったんだからね。浮世離れしていても、なんかね、心の底から湧き上がるような感じで、「それでも、これで良かったんだ」と思えるようなことが、錠一郎の心の中にだけでも湧き起こってから、死んでほしゅうございますね。るいもそれを見届けたいでしょうにね。それでないと、錠一郎は死にぞこないの極楽トンボのままだもんね。るいも悔しいと思うかもね。

 それでも、蛇の生殺しよりは、マシだけどね。死にたいというか、死んでもいいと思っている人間を蛇の生殺しにしたら、それは、いかんよね。人生の道が、ぐちゃぐちゃになって、立て直すことも出来ないや。自分の安い価値観で、良くしようと思って、そんな蛇の生殺しをする安い坊さんもけっこういるからね。

 俺なんかの人生は、考えてみると、それの部類だったからね。坊さんになってからの若い時に、一度、老僧に、「蛇の生殺しに会っているな」と言われたことがあったけどね。今さらに、そう思うよ。エネルギー的には、死にぞこないより、しんどい人生だよね。「生きているだけで、丸儲け」というよりは、「悪くもないのに傷つくために、生かされているだけ」だよね。苦行だね。あはははは。

 そんなんでも、そしてまー、誰に分かってもらえるわけでもないけど、どうかすると、善く生きて来たなぁー、、、こんなんでも、謙虚になって、しかも、胸を張って死んでいける生き様の内には入っている、と感じたりもするんだよね。出雲大社さんへお参りに行った時に、そう気づかせてもらえたしね。そう思ってもらったしね。いや、確かに、俺自身も、掛け値なしにそのまんまそうだと思えるしね。

 だから、この現世への欲望が少ない錠一郎も、死にぞこないのままでいいから、浮世離れの意地を見せて欲しいよね。今さら、身構える必要もないんだろうからね。

 40代の死にぞこないの極楽トンボが出来ることって、何なんだろうね。やっぱ、トランペットに帰るだけかなぁ。桃太郎の為には、野球を見てやっているから、ヒナタの為に、何かのはずみでトランペットを吹いてやれれば、いいかもね。もう一度、トランペットの大会があれば、いいのにね。太秦の映画村だから「老いたトランぺッター」という、映画があってもいいけどね。

 今日は、老いたトラペッターは、これでよかったんだ、と思えたので、今度は自らトランペットを吹くのをやめ、トランペットを抱いて、やっと死にました、の一席でした。

「それでも、これで良かったんだ」と思えるのが、至心に今を生きる者の人生の価値観かもね。透明だね。透明な空性ですね。空気体瞑想の極意でもありますね。さて、修法だよ。

 可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素という空気)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、透明な空に戻ればいいからね。

 透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。