おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って、書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。まだ一人です。あははは。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどの意味です)
カムカムエブリイバディ、見ていますか?。
るいは、ジョーがたこ焼きのソースを服につけてしまったので、急いでジョーの所に駆け付けて、なんとなく仲直りをしたようだ。二人は、かき氷を食べながら、ジャズのサニーサイドオブスザトーリー?の話をしている。その会話では、ジョーにとっても、その曲は特別なものだったようだ。るいと同じだ。
ジョーは、幼い頃に岡山にいたようだ。もしかしたら、ジョーは、岡山のジャズ喫茶で、窓越しにジャズを聴いていた、あの浮浪児かもね。安子は、ジョーの幼い頃の話に乗って、自分と安子の事、安子がアメリカ人と恋に落ちて自分を捨てた事、などなどの話しをした。しかし、ジョーは、「おかぁさんに、会いたいんだね」と言ったもんだから、るいは癇癪を起した。心の整理がついているようで、ついてないんだから、余計なことは言わない方がいいと思うけどね。
そこへ、クリーニング屋さんの夫婦が現れて、少し強引に、二人を、というか、ジョーを夕ご飯に誘った。るいとジョーは、また仲直り的になった。るいは、ジョーに自分の気持ちをぶつけては、ジョーに近づいている感じだな。
ジョーよ、いや、大月ヨ。これは、るいの心が素直になったら、天からのお前の用事は済みかもね。あはははは。いや、違うかなぁー。るいと安子の関係がまだあるからね。
つらつら考えるのに、るいが、耐えていい方に頑張って生きているうちは、結果として、彼女がそれで良かったと思えるところまで導いて、余裕を持たせてやるしかないんだよね。るいが抱えている種類の心の整理は、時間が経てばたつほど、出来なくなるだろうね。それは日本に有った善性で、安子もるいも、その本来の善性の範囲を生きて来た人だから、とくにそうだろうね。でも、その善性は敗戦によって、GHQにぐちゃぐちゃにされたけどね。そういう訳もあり、安子はロバートに行っちゃった、というのが結果だからね。やれやれさ。
ただ、るいは、幼い時に母親に捨てられたと思っていても、自身は二十歳前後でまだ若いから、結果としてのいい現実が有り、余裕を持たせることが出来れば、その時が、安子とるいにとって、お互いにわだかまりなく理解の出来るチャンスだと思うけどね。そこまでは、浮浪児のジョーに頑張ってもらうしかないけど、出来るかなぁ?。
女の心や女の魂の整理は、たぶんだけど、突き詰めると、「存在と生存」の価値が、掛かって来るようになって、その整理の中で「アタシの存在はなに?」になる訳だろうから、安子が「捨てるつもりはなかった」と母の気持ちとか、愛を示したとしても、もう、るいには届かないやな。
女が自分の存在の価値を引っ張り出してくると言えば、普通の生活でも「実家に帰らせていただきます」とかと言うのが、女房という女にはあるよね。旦那は、迎えに行かないといけないよね。
それにも増して、6歳のあの時、幼いるいは以心伝心の直感として、大阪に行った母親がピンチだと勘どって、入学式へ行かずに大阪行きの電車に乗ったんだからね。6歳なのにね。安子の居場所も分からないのにね。
それで、雨の中を母親の居るところにたどり着いてみると、ロバートに助けられていて、しかも、むかし安子とるいが暮らしたことのあるアパートにいたんだからね。貧乏だけど楽しい思い出のあるアパートの物置だよね。
そうしたら、ピンチどころか、安子はロバートと抱き合っていたんだからね。幼いるいの以心伝心の勘は、宙ぶらりんだよね。これって、勘のない奴には分からないだろうけど、本当の孤独だからね。きついよ。分かっていて通じないんだからね。現実の状況を越えるほどの真心が通じないんだからね。孤独なとほほ、それにもほどがあるよね。そりゃー、るいも鳴らない風鈴になるわな。
クリーニング屋さんでは、夫婦とるいと大月君で、夕方になるまで楽しい宴会だ。地蔵祭りの屋台から買って来た食材もたくさんある。が、まだ日本は貧乏だね。たいしたものはないや。
暗くなったので、るいは、ジョーを送って行くことにされた。その途中で、大月ジョーは、ガラスの風鈴を買って、るいに何も言わずに渡した。鳴らない風鈴になっていたるいの心が、鳴り始めたのかもね。るいは、自分の給料で、ジャズのレコードを買うつもりになったようだ。安子とのいい思い出だけは、受け入れておきたいのが、女子だよね。あとの思い出は消えて行けばいいんだけどね。
まー、俺みたいに、いい思い出がほとんどない人間たちは、まっ、この世を出て行くしかないやな。解脱か消滅か、だけだね。そんな過去は、受け入れても受け入れなくても、同じだけどね。あははは。漫画の明日のジョーじゃないけど、「燃え尽きて真っ白だよ、・・へへっ」だね。
しかしながら、現実というと、中途半端に悟った奴は、覚者や坊主も含めて、しっかりと過去が分かりもしないのに、そういう過去をつつくよね。治すことも出来ないのにね。それで、自分たちは、まとものことしたと思っているんだよね。幼稚で、まともなに生きている人間を知らずに、要足らず役立たず修法しか出来ないのにね。そのくせ、俺からでも、取るものだけは、取っていくんだよね。霊能力も含めたあの手この手でね。覚者や、坊主というよりは、奴らは妖怪だよね。今は、そういうのが多いいね。ゆえに、奴らの行くところは、妖怪の行く地獄だろうね。
奴ら自身としては、頑張ってやってきたつもりだから、気持ちの整理は、地獄行が決まった時に、どうするんだろうね。「全部、違うよ」って、天然のダルマと主なる神様は、たぶん、言うよ。大変だね。その覚悟はあるのかな?。
はっきり言えば、今でも行われている犠牲祭も、その妖怪の口だよね。
だから、古代のシャーマンたちの犠牲祭というか、生贄祭というか、そういうカルマが原因で、言ったもん勝ち、やったもん勝ちのろくでもない大陸型人の性格が出来たんだろうね。仕舞いには、少しでも謝ったら、「悪いと思うところが有るから、謝ったんだろう」みたいなケチをつけて来る弁護士まで出てくる始末だからね。アメリカではそういう感じだったよね。実際は、悪くもない人間が誤っていたとしてもね。
そういうコネたやり取りが見えて来ると、善き者が、理不尽を受けて犠牲になるのも、犠牲祭的にはしょうがない、という自己弁護みたいなことを、妖怪の奴らはのたまうんだろうね。それか、その弁護士や妖怪の元々のカルマが悪いのに、謝った者の元々のカルマが悪いんだ、みたいなことを言い張るんだろうね。
つまり、犠牲祭のカルマは、堂々巡りになり落ちて行くだけだね。汚れるだけだろうね。善きものが被害を受けるところが問題だよね。
まー、言ってしまえば、出来損ないや用足らず、役立たずの覚者や坊主やシャーマンや霊能者は、だいたい、自分を善きものだと思っている節があって、そこから、そもそもの勘違いをしているからね。
こう言うと、一般の、覚者でも何でもないクソ凡夫たちが、そのくそ凡夫よりはるかにましな覚者や坊主や妖怪もどきをぼろくそに言い始めるんだよね。困ったもんだよ。マスゴミが鬼の首でも取ったかのように放送する時もあるよね。現実は、クソと役立たずが、弱いくせに心理的駆け引きをやっているんだね。主なる神様に使える気とかは、さらさらないんだね。あはは。
そして、仕舞いには、自分らを作った神様が悪い、とかと言い始めるみたいだね。それなりに頑張っている自分らが理不尽な目に会い、なんだかよく解らなくて、苦しむのはおかしいと思って、今度は主なる神様のせいにするんだね。中途半端に位の高いの神様の災いというのあるみたいだけど、いい年をした大の大人でも、突き詰めるとそういう風に、神様のせいにするからね。こういうのは業の焦げ付き以外の何物でもないやな。
そうなると、言ったもん勝ち、やったもん勝ちのろくでもない大陸型人が増えるよね。まっ、そう言う奴は、生きながら腐って死ぬことになるだろうね。その内に分かるかもね。
ところで、今日の朝ドラでは、風鈴が出てきたな。もうだいぶ前に収録している物だよね。俺がるいにつてい表現した、鳴らない風鈴というのが当たったのかな?。いや、そう見えたんだけどね。あははは。
ジョー大月、るいの心の深いところの整理は、諦めという形でしかついてないから、るいは安子の事に関して、まだまだ感情をぶつけて来るかもね。感情が出てくれば、まだいい方だとも言えるけど、感情がコネて憎しみに変わると、困るしね。結局、結果として、これで善かったのかなぁーと思えるところまで行って、心に余裕があるかどうかだろうけど、ジョー大月が役立たずじゃ、そのバランスがどのあたりか、分からないやな。
ジョー大月、たぶんお前は、岡山の浮浪児だったんだよね。進駐軍のクリスマスパーティーで、ジャズ喫茶の店主(世良公則)の歌を聞いたんだよね。ジョー大月の場合は、浮浪児が日の当たる道に出たいという事だろうから、温かい家庭が日の当たる道か場所になるんだろうね。うーん、うーーん、うーーーん、仮にたどり着いたとしても、こんなもんかと思うかもしれないし、ジョー大月よ、日の当たる道は無いと思って生きていた方が楽なのかもね。「ジャズがあれば、いいや」、になるかもね。なにせ、人生の全部が、どうしようもないから、ジャズの脱力と緩和なんだからね。出来ることと言えば、今ある音でこの世から解脱することだけかもね。まっ、ジョーは、どうせ浮浪児だから、簡単だよね。
今日は、敗戦で、母親に捨てられた感じになった文学少女るいと、浮浪児だったジャズトランぺッターの恋は、どういう展開になるんでございましょうか、の一席でした。日本は、高度成長時代だから、生活費に追われることは、少ないかも知れませんね。じゃぁ、とりあえず、自己責任で好きとか嫌いを越えるまで、この恋を生きて見れば、どうですかね。あとは、空へ帰るだけさ。その前に、空気体瞑想をしておけば、空に帰りやすいけどね。ご自由に。さて、修法だよ。
可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気(酸素や二酸化炭素という空気)のようなものに包まれている事を思い、その後、そこで透明な息をしている感じになり、、そのようにして行う、空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。そこで雑念が出て来たら、雑念のなかで、雑念自体に気づいた時に、いつもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、透明な空に戻ればいいからね。
透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。お祈りしなよ。