おはようございます。以下は、空気体瞑想を広めようと思って、書いています。書き間違いもあるかも。空気体瞑想の創始者です。まだ一人です。あははは。空気=(酸素・二酸化炭素・プラナエネルギーなどの意味です)

 

 カムカムエブリイバディ、見ていますか?。

 るいは、クリーニング店で働けることになった。店主夫婦は、るいの事を上品な娘さんだと見たようだ。両親がいないことも知って、額の傷の事も知ったようだ。なにしろ、岡山のキジマ繊維の娘さんだと知って、詳しい情的事情も知り、女将さんはるいを、大事にしてあげようと思っている。この夫婦には、子供が居ないのかな。

 るいは、翌朝に目が覚めて、奥さんの作った味噌汁と「美味しい」と飲んでいる。キジマの家から開放された感じなのかな?。

 るいは、クリーニング店の仕事をいろいろと教えてもらった。雑用もしているみたいだ。そんな中で、クリーニングに持ってこられている服の汚れで、お客さんの状況を推測する癖をつけているみたいだ。一枚の服の洗濯でも、気の利くことが出来るように、訓練しているようだ。商売質が善いね。

 そんな時、若い男が、たくさんの洗濯物を持って来た。るいは、その男の素性が気になって、名前を聞き忘れた。名前を宇宙人ということにしたようだ。洗濯物は、どうせ取りに来る。

 るいは、商売において、安子の柔らかい性格を引き継いでいる感じはあるね。

 ところで、このクリーニング店には、テレビも冷蔵庫も炊飯器もあるんだね。結構、クリーニングが流行っていたんだろうね。日本の高度成長期の初めかな?。昭和38年ぐらいかな。クリーニング店の夫婦は、経営が上手く行っているせいか、明るくて、るいにはいいかもね。あの頃は、日本も活気づいていたんだね。

 るいは、バッチリと女の子だよね。心の底はびくびくして生きて来たんだろうけど、それが、開き直ってはいないやな。キジマの家でも、るいは不憫に思われて、そこそこは大切にされてきたんだろうね。るいは、世の中を斜めにも見ていないし、ひねくれてもいないからね。気分は天涯孤独だけどね。ユキエが、どこへ行っても女子として、気が利くようにだけは育てたんだろうね。

 商売のもともとの基本は、るいがリヤカーの上で商品のぼた餅と一緒に、安子の後姿を見続けていたからね。身体に染みついているよね。時代は高度成長期だし、るいが頑張れば、生きていけるだけの躾がされているわな。

 今の時代では、そこそこにも生きて行けない子供を、育ててしまう親もいるからね。そもそも、子供の親も変なのが多いいからね。戦後の価値観が、世界感としてガラリと変わってしまい、しかも、高度成長期の経済の時代になったから、子育ても、『生きていりゃーいいや』になるかもね。都会では、共働きせいで、かぎっ子とかもいたからね。ドラマの時代は、その前あたりだね。

 じゃぁ、るいの子供はかぎっ子の出初め頃になるのかな。核家族と言って、年寄りと家族がバラバラになる時代だね。その後、平成ぐらいになって、お一人様が出てきたんだからね。第二次世界大戦後の日本は、個人主義と自由主義が、価値観にされていたんだろうね。

 これを俯瞰して観ると、日本の多くの子供が、だんだんと、世の中で生きて行く為の躾もされずにいるよになり、そして、人間の中身の半分はアメリカナイズされて行ったんだろうね。それで、大きくなった子供たちは、天涯孤独になって行く感じも薄っすらとあって、今のような、誰も傷つけたくないし、自分も傷つけられたくないというような、自由もどきのお一人様が出来たんだろうね。悪くはないけどね。

 それでも、純正日本人の遺伝子意識は、大きな地震の時も、コロナの対策の時も、他所の大陸型人よりも道徳的で、たいした暴動も起こさないし、まともなんだね。我慢強いよね。

 自然に対する諦めや崇拝と神様に対する畏敬の念が、深層意識に根付いているんだろうね。日本人に、特に目立った信仰心がある様に見えなくてもね。まー、目の前で人が死で行くのを見れば、当たり前にかなわないと思うけどね。大陸型人は、そこが違うんだろうね。自分の為に、死をなんとかしようと思うんだろうね。

 お釈迦さんだって、最初は、生老病死の苦をなんとかしようと思ったんだからね。そして、6年間の五穀断ちをして、ほぼ死んで、スジャータに面倒をみてもらって、その後、菩提樹の木の下で「死ぬまで、動かん」という決意の元に、七日間の瞑想に入って、悟られたんだからね。これを本当にザックリのざっくり言うと、死のうと思って、ゆっくり死んでみて、お釈迦様は、死とこの世を超越された感じだよね。でも、その時の瞑想は、天使たちが供養してくれていて、お釈迦様にとっては、そんなに苦しくはなかったんだよね。いい感じだったんだよね。そして、悟れて、その悟りの後の初の説法が、十二因縁から説いて、人間の持っている執着や固着を離れるいう説法だったと思うんだよね。俺の記憶が正しければね。とてもザックリの話だけどね。

 そのお釈迦様の説法をさらに突き詰めて、ざっくりで簡単にすると、結局、人間は、この世に対しての固着や執着、そしてこの世の森羅万象あらゆるものへの固着や執着があるから、生も死も越えられない、みたいな話になるんだろうと思うんだよ。人間は、「この世とこの世のものに執着していて、それでも、なんとか生きていたい」と言っているんだね。気の流れの仕組み的に、無理を言っているんだよね。永遠の命も自覚していないしね。

 なので、人間には、その自分が生き続けるための根本的な執着、それがあることになるよね。だから、イスラム教でもキリスト教でもユダヤ教でも、その教えのストーリーの中に、主なる神様のお告げで、自分の子供(長子)を神に捧げる(生贄にして殺す)という行動があるんだろうね。生きたいという生への執着を露わにして、仕掛けて、神の御心に純粋に従って、永遠の命を知るという事を、信者が実際の行動として学ぶために、犠牲祭のストリーがあったんだろうね。そのストーリでは、結局のところ、自分の長子を生贄にするのじゃなくて、変りに神様が与えた羊が生贄になって、みんなの食べ物になるんだけどね。あはははは。当時の人は、必死だったんだろうね。笑うね。ごめんね。

 犠牲祭をググってみると、今でもイスラム教あたりでは、なんとか言う大きな祭りの後に、3日間の犠牲祭をしているね。そこでは、親が凄く愛している我が子を、主なる神様に純粋に帰依している証として、神に差し出して、殺して生贄にしなければいけないという昔の物語があって、その時の意識の変化を、信者たちで追随して、学習しているみたいだね。祭儀としては、羊とかが殺されて、アラーの神に捧げられるらしいけどね。

 これさー、大変だろうけど、聖職者が勘違いをしているよね。主なる神様としては、人間が、この世とこの世の物(者)やお金や地位や、その他もろもろの森羅万象に執着と固着をしているから、そこを、魂レベルで離れるために、、、魂がしている執着や固着を解決して、開放して、それらを善く離れるために、、、そのことを意図として、神様がお告げを示してくれたことだからね。早い話が、そのお告げを受けた親(預言者)は、とても善い人で、自分の長子が、自分の魂の中での一番の「愛で執着」だったんだろうね。自分の子供は可愛いやな。

 神様のお告げは、そこの愛の執着を活性化させて、親(預言者)の魂が、この世の全てを離れる(解脱する)ためものだったんだろうね。その課題や試練だったんだろうね。俺はそう思うね。

 それをアホな、祭儀者や霊能者や祭司は、勘違いをして邪見に落ちて、「親は自分の子供を神に捧げなければいけない」みたいなことと考え、犠牲祭を凄く大変で正当な儀式みたいに言って、本当に子供を殺して、犠牲祭をやっていたんじゃないかな?。司祭じゃなくて、死祭だよね。信じられないぐらいに馬鹿な話なんだろうね。主なる神様も困ちゃうよね。俺も頭が痛くなるよ。

 聖書の中にある親子の犠牲祭の話では、神にささげるために、子供を殺してないでしょ。捧げたのは、神様の用意してくれた羊だよね。ダメな祭司は、馬鹿すぎる。

 お釈迦様は、執着や固着についても、犠牲祭の超越(クーダンタ経)も説いておられて、前にも書いたけど、結局は、正しく瞑想をしなさいよ、そして、執着や固着を善く離れなさいよ、と言われているんだよね。つまりそれは今の言葉では何に当たるかと言うと、深層意識や潜在意識の活性化なんだよね。ただね、それがとても難しいのは、活性化を生死を越えた魂からしなさいよ、と言っていることなんだよね。俺はそう感じるね。

 今は、邪見に落ちた、聖者か祭司か知らないけど、深層意識の活性化をややこしく、ややこしくしてしまって、困っちゃうよね。

 だけど、元をただせば、その因縁は、聖書のノアの洪水の時の話まで行くと思うんだよね。俺はね。

 ノアは主なる神様に忠実な者であったから、当時の地上に悪が蔓延って、悪しかなくなった時に、神様は、ノアとその他の選ばれた生きたちをノアの箱舟に導き入れて、神様の起こした大洪水から助けられたんだよね。この主なる神様の意図するところは、勧善懲悪だからね。なのに、ノアは、助けてもらったことに対してのお礼をしようとして、善き方と悪い方の動物がいたのに、善い方の動物を殺して、神様に捧げたんだよね。ある意味で犠牲祭だよね。そして、これ見た主なる神様は、『この人は、まだ幼い』と思ったんだよね。ここ、分かるかなぁ。神様にしてみれば「ノアヨ、違うよ」、「俺が、ノアの洪水を起こしてやったことの意図は、地上に悪が蔓延ったから、大掃除をしたんだよ。勧善懲悪なんだよ」ということでしょ。だから、ノアは、いい方の動物を殺しちゃダメでしょ。悪い方の動物を殺して、神に捧げる必要もなかったんだよね。神様も悪いものは要らないしね。

 ノアは、洪水から救われたときに、静かに主なる神様に対して、感謝の瞑想をすれば良かったと思うな。

 それでだよ、聖書によると、今現在地上にいる人類は、全て、ノアの子孫という事だからね。また、間違いが蔓延るよね。

 だけど彼らは、生死を越えるぐらいの正しい瞑想をして、執着や固着を離れるだけで救われたんじゃなかったのかな。お釈迦様はそうされて、解脱されたよね。そして、犠牲祭の超越(クーダンタ経)も説法されているよね。なのに、アホな祭司や聖者や、おどろおどろしい古代からの出来損ないのシャーマンが、現世利益の為に、犠牲祭をしているわけだからね。しかも犠牲になるのは、動物だけではなくて、インカ帝国とかでは、人間の生贄まで使っていたんだろう。何処まで、何を勘違いをしている馬鹿なのかね。

 たぶん、現代でも、純粋で善き人間を殺して神に捧げるとかと言って、変な犠牲祭をしている奴はいるかも知れないね。なんか、そんな感じがしてきたな。それらは辞めないと、自業自得で自分が苦しむだけだよ。あっ、もう手遅れか、、。イヤ、もしかしたら、このイカレタ奴らは、犠牲祭用の陀羅尼か、呪術の言葉を開発して、使っている可能性も感じるな。だけど、陀羅尼や呪術は言葉の範囲で、主なる神様の沈黙には勝てないやな。善き者の瞑想の沈黙には勝てないだろうね。このイカレタ奴らには、執着があって、勘違いをしているから、バリバリにエネルギーは弱いだろうからね。気が強そうに見せているだけだね。擬態だな。

 この世とあの世を通してのシステムは、天然のダルマのエネルギー反応で、それは勧善懲悪だからね。馬鹿な犠牲祭をやっていると、自業自得で自分が苦しむ事になるからね。もう手遅れかも知れないけど、犠牲祭は、辞めることだね。それよりも、お釈迦さんが言われるように、正しく瞑想をしなさいだね。俺の言う、空気体瞑想もかなり良くて、方便としては最高峰だろうね。ヒマラヤの聖者も思いつかないものだろうね。あとは、瞑想する人の意識のレベルと器によって、違って来るけどね。竹は竹、松は松でございますね。当たり前でございますね。

 今日は、傍に人がいたとしても、誰でも死ぬときには主観的に一人だから、それは天涯孤独という事だから、ノアの時代からの勘違いをした犠牲祭を辞めて、正しく能率のいい瞑想をしましょう、空気体瞑想もいいですよ、の一席でした。さて、修法だよ。疲れた。

 可能なら、静かに座って、、まず、透明な空気のようなものに包まれている事を思い、そして、そこで透明な息をしている感じになって、、、そのようにして行う空気体瞑想(真聖吉祥瞑想)をしようね。その後、雑念が出て来たら、雑念のなかで雑念自体に気づいた時に、いつでもどこでも透明な空(くう・そら)に意識を向けて、透明な空に戻ればいいからね。

透明な空性の中でのありのままの現実と自分と、その向こう側からの、空性に基づいた自然の反応である天然ダルマの無限のエネルギーの流れの中で、その無限のエネルギーを吸収しながら放出して、浄化して清らかに、昇華して強く、進化して綺麗になって、平らけく透明に安らけく広がって、法恩感謝、神恩感謝、して行こうね。この気の流れは何者にも止められないからね。聖への道だからね。天国への道だからね。お祈りしておくね。