聖書と仏教の意味するところ104

聖書の使徒行伝第19章
(パウロがアジアに2年以上とどまって、神の手によって、奇跡を
起こし信仰を広めていた時のこと、銀細工の職人たちが、手で作っ
たものは神様ではない、というパウロの教えに反発して暴動を扇動
した。)
ついに、市の書記役が群衆を押し静めていった、「エペソの諸君、
エペソ市が大女神アルテミスと、天下った御神体との守護役である
ことを知らない者が、ひとりでもいるだろうか。これは否定のでき
ない事実であるから、諸君はよろしく静かにしているべきで、乱暴
な行動はいっさいしてはならない。諸君はこの人たちをここにひっ
ぱってきたが、彼らは宮を荒らす者でも、われわれの女神をそしる
ものでもない。だから、もしデメテリオなりその職人の仲間なりが
、誰かに対して訴えることがあるなら、裁判の日はあるし、総監督
もいるのだから、それぞれ訴え出るがよい。
...
コメント
仏教でも、お釈迦様の頃は仏像はありませんでした。お釈迦様がな
くなられた後、お釈迦様の足跡を祭って尊んではいたようです。仏
跡です。しかし、これはお釈迦様の生き方やその徳の道理を見習う
という意味だったと、私は思います。
 つまり、偶像がいけないのではなくて、神仏の像やその教えがあ
らわしている意味を知らなくてはいけないという意図の言葉だった
と思います。
教えの意味というと理屈を唱える人が出てきそうですが、それでは
その意味は偶像と同じですね。形だけになってしまいがちです。
 形のある偶像であろうが、方便の意味(教え)であろうが、人が
その教えの意図を正しく感じることが生命線なのですね。ここが難
しいのですね。
 お寺の仏像は、魂を入れて、人々を導くための方便として、祭ら
れています。
良く御理解をしてください。

(余談ですが、この聖書の文の当時も、アジアの神様は大女神アル
テミス様だったのですね。これは、日本神道のアマテラス大御神
様と感じるのは私だけか。)