聖書と仏教の意味するところ101
聖書のコリント人への第一の手紙第8章
偶像への供え物について答えると、
「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。し
かし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。もし人が、自分は
何かを知っていると思うのなら、その人は、知らなければならない
ほどの事すら、まだ知っていない。しかし、人が神を愛するなら、
その人は神に知られているのである。
...
コメント
知識に凝り固まることは、形ある偶像を崇拝することと同じなので
すね。神を愛するという心情は、凝り固まりとは違って、自由感が
あるものなのですね。それでも主なる神の法則におのずから従って
いるのですね。
仏教でも、このことを、「本当の自分」とか、「あるがまま」とか
といいますが、同じことを言っているのですね。本当の自分とは、
宇宙自然の法則に従った自由感のある自分ですね。
(余談ですが、愛とか法則に形としてとらわれることも、実は偶像
崇拝的なこだわりかも知れませんね。こだわりで汚れていくのも愚
かですが、指針やこだわりをなくして、めちゃめちゃになって行く
のも、愚かですね。つまり自由感だけで行動するのは、危険ですね
。本物探しは続きますね。本物は融通無碍ですから、見つかります
でしょうか。形が必要なときもあるのかな、ないのかな。いずれに
しても、理解できなければ同じですけどね。難しいですね。)
聖書のコリント人への第一の手紙第8章
偶像への供え物について答えると、
「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。し
かし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。もし人が、自分は
何かを知っていると思うのなら、その人は、知らなければならない
ほどの事すら、まだ知っていない。しかし、人が神を愛するなら、
その人は神に知られているのである。
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コメント
知識に凝り固まることは、形ある偶像を崇拝することと同じなので
すね。神を愛するという心情は、凝り固まりとは違って、自由感が
あるものなのですね。それでも主なる神の法則におのずから従って
いるのですね。
仏教でも、このことを、「本当の自分」とか、「あるがまま」とか
といいますが、同じことを言っているのですね。本当の自分とは、
宇宙自然の法則に従った自由感のある自分ですね。
(余談ですが、愛とか法則に形としてとらわれることも、実は偶像
崇拝的なこだわりかも知れませんね。こだわりで汚れていくのも愚
かですが、指針やこだわりをなくして、めちゃめちゃになって行く
のも、愚かですね。つまり自由感だけで行動するのは、危険ですね
。本物探しは続きますね。本物は融通無碍ですから、見つかります
でしょうか。形が必要なときもあるのかな、ないのかな。いずれに
しても、理解できなければ同じですけどね。難しいですね。)