聖書と仏教の意味するところ84

聖書のローマ人への手紙第1章
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる
。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである

 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる
不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神につい
て知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明
らかにされたのである。
... 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造
のこのかた、被造物において知られていて、明らかに認められるか
らである。したがって、彼らには弁明の余地がない。

コメント
これは聖パウロが言われているのですが、全くその通りです。
仏教でも、お釈迦様は、お悟りになったあと、わたしは法(宇宙自
然の法則)に従う、と言われています。聖書では、これを「神の永
遠の力と神性」と説明しているのでしょうね。ここには信じれるし
信じる力があるのですね。これが、「あるがままで生きれる」とい
う本当の意味ですね。分かってもらえますかね。
聖書はこの事も言っているのでしょうね。

(余談ですが、あるがままというのは、法則と信仰があってこそな
んですね。その時に進歩があるんですね。現状の現物のやりくりと
は違うのですね。何か分からないけど、迷いとも勘違いとも違うん
ですね。ここが信仰なんですね。)