聖書と仏教の意味するところ58

聖書のマルコによる福音書第9章
もし、あなたの片目が罪をおかさせるなら、それを抜きだしなさい
。両目がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になっ
て神の国に入る方がよい。地獄では、うじがつきず、火も消えるこ
とがない。人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいもの
である。しかし、もしその塩の味がぬけたら、なんによってその味
が取りもどされようか。あなた自身の内に塩をもちなさい、そして
、互いに和らぎなさい。

... コメント
仏教にも、「火」のたとえがあります。「煩悩の火」と「知恵の火
」です。地獄で「煩悩の火」に焼かれるのは苦しいということです
ね。「知恵の火」だと、天国に行きます。同じ法則でも違いがあり
ますね。切り捨てることもあるのでしょうね。罪が終わるというの
は、大変ですね。
ここでいう「塩」は、「知恵の火」の中の「戒(いましめ)」にあ
たるかと思います。宇宙自然の法則が戒めてくれるのですね。ここ
の意味の戒は、気の流れとして、自動的になるのが正解です。さら
に、この戒は、人間の言う規則とは、同じだったり違ったりします
。ここの見極めができないと、「知恵の火」の意味が分かりません
ね。
「知恵の火」によって、戒による加護も受け、自然のままに調和し
て和らぐんですね。
聖書はこのことも言っているのでしょうね。

(余談ですが、知恵の火の後に、すぐに煩悩の火を燃やすのが、ほ
とんどの人ですね。煩悩も知恵も区別をつけたくないのが人間かも
しれませんね。感謝して道に迷わないようにしないといけませんね
。これも塩でしょうかね。)