聖書と仏教の意味するところ56

聖書のマルコによる福音書第4章
 
また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものであ
る。夜昼、寝起きしている間に、種は目を出して育って行くが、ど
うしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ば
せるもので、始めに芽、次に穂、次に穂の中に豊かな実が出来る。
実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである。」
...
コメント
これは、神の国を、自然の法則にたとえていますね。当たり前のこ
とが書いてある訳ですが、この当たり前が、なかなか深く理解でき
ないのでしょうね。知識として、上っ面をなでてしまうのでしょう
ね。法則のスピードが早いですからね。
仏教では、このような当たり前を「道理」といいます。
どうしてもそのようにしか流れない気の流れみたいなのがあるので
すね。しかしそれを細かく精妙に感じて、読み説いていくと、深く
て広くて大変素晴らしいのですね。もう、理屈も感覚も越えて素晴
らしいのですね。ただ、この素晴らしさも、人間の方が素晴らしく
進化しないと、良くは分かりにくいのかも知れません。けど、分か
るんですね。キリスト様もここの奥義は、お弟子さんたちにしか話
されていないようですね。これは、自分で分かるようにならないと
いけないところかも知れませんね。聖書はこのことも言っているの
でしょうね。

(余談ですが、当たり前「道理」、を本当に突き詰めていくと、こ
の物質世界を超えますね。これは、この世界の否定ではないですね
。もちろん、その途中で消滅もありますけどね。有り難いことなの
でしょうね。越えていくということは、今で言うところの本当の人
間力でしょうか。)