聖書と仏教の意味するところ54

聖書のマタイによる福音書23章
(そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた)
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先
生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。ま
た、地上のだれをも、父と読んではならない。あなたがたの父はた
だひとり、すなわち、天にいます父である。また、あなたがたの教
師はただひとり、すなわち、キリストである。
... そこで、あなたがたのうちで一番偉い者は、仕える人でなければな
らない。誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は
高くされるであろう。

コメント
宇宙自然の法則に従うということは、こういうことなんですね。こ
うゆう心がけとと言ったらいんでしょうかね。
「仕える人」というのは宇宙自然の法則に仕える人なんですね。そ
うでないと「父」という言葉が意味不明になってきますね。
仏教でも「慈父導師」ということばがありますが、宇宙自然の法則
は、優しくもあり厳しくもありという、(今では失われた?)父親
像にも似ているのかもしれませんね。

(余談ですが、多くの人が、「それを信じたら、どうなるのか、ど
んな利益があるのか」と無意識に、または意識的に考えたがりると
思います。しかし、宗教はそうなっているから、そう感じているか
ら、説明をしているんですね。そして、全体からみたとき、そこに
「考え」よりは「真理」の方が多いからなんとかなっているんです
ね。法力もそこにあるんですね。そこに理屈やへ理屈を入れると、
複雑化して終わるんですね。そうならないためには、慈愛を知って
生きていくことですかね。単純と複雑化を繰り返す、そんなところ
ですかね。)