聖書と仏教の意味するところ53

聖書のエレミヤ書第20章
もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名に
よって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって
、燃える火のわが骨のうちに閉じ込められているようで、それを押
えるのに疲れはてて、耐えることができません。

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主なる神の言葉は押えることが出来ない、とありますが、宇宙自然
の法則の反応も抑えることが出来ないのが、本当ですよね。人間は
そこに生きているんですから。
仏教でも、和讃の中に、「骨を砕きても捨すべし」とあります。(
字が違うかもしれません)意味は、「自分のすべてを仏様に奉仕し
なさい、」ということです。ここでも「骨」という表現が出てきま
す。聖書の表現と同じです。
主なる神様や、宇宙自然の法則は、人の骨格にまでおよんでいると
いうことなのですね。信仰をして、進化してくると、そんな感覚に
なるんですね。人間の「骨」ということが、何か、どれぐらいのエ
ネルギー量か、そういうことが主観的に分かってくるのですね。
聖書も仏教もこのことも表現しているのでしょうね。

(余談ですが、骨があると言っても、強情なのとは明らかに違いま
す。また、自分を守るために理屈や感情をを繰り返すのとも違いま
す。柔軟体操みたいに柔らかくなっていくんですけど的を得ている、という感覚が近いかもしれません。勘違いなされませんように。そんなところです。)