聖書と仏教の意味するところ47

聖書のミカ書第7章
わが敵よ、わたしについて喜ぶな。
たとえわたしが倒れるとも起きあがる。
... たといわたしが暗やみの中のすわるとも、
主はわが光となられる。
主はわが訴えを取り上げ、
わたしのためにさばきを行われるまで、
わたしは主の怒りを負わなければならない。
主に対して罪を犯したからである。
主はわたしを光に導きだしてくださる。
わたしは主の正義を見るであろう。

コメント
仏教でも、阿弥陀経でしたか??、「この念仏(真の念仏)を知る
に至るまでに、どれだけの苦労を味わったか、計り知れない」、と
書かれていたと思います。
確かに、体験したくてしている訳ではないのですが、「これでもか
」と苦しい思いをする時は、あるのかもしれません。その時に、自
分の事が罪も徳も含めて公平に分かるようになるのかもしれません
。へ理屈ではなくてね。本当の謙虚さと共にね。
 この公平のもとが主なる神様や仏様や法則なのですね。ここまで
進化しなと、一段落がつかないんですね。そうなれば、主なる神様
も仏様も宇宙自然の法則も、光に見えてくるんですね。本当の正義
に見えてくるんですね。聖書はこのことを言っているんでしょね。

(余談ですが、だいたい(半数)の人は、主なる神様や仏様の真理
からは逃げますね。やはり自分の罪を認めるというのは難しいんで
しょうね。救われたいばかりですからね。本当の真理を受け入れれ
ば、救われるということが感覚的にわかるのですけど、葛藤の方が
目立ちますね。ただ現実は、真理を受け入れても、のど元を過ぎた
らすぐに忘れる人が多いですね。自分が自覚できる真理の量が、あ
る一定量になるまでが難しいのですね。進化は喜びですが、大変で
もあるのかもしれません。お釈迦様の言われる、「中庸」が大切で
すね。「中庸は」は公平のもとですね。「絶対バランス」の反応で
すね。人間の言う平等とは違います。勘違いされませんように。)