聖書と仏教の意味するところ45

聖書のアモス書だい3章
イスラエルの人々よ、主があなたがたに向かって言われたこと、わ
たしがエジプトの地から導き上がった全家に向かって言ったこの言
葉を聞け。
 地のもろもろのやからのうちで、わたしはただ、あなたがただけ
を知った。
... それゆえ、わたしはあなたがたのもろもろの罪のため、あなたがた
を罰する。
二人のものがもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか。

コメント
仏教でも、お経を唱えるとき、最初に、「懺悔文」というのがあっ
て、この世の始めからの罪を懺悔します。これは、始めであり終わ
りである普遍的基盤(空(くう))と共に懺悔するんですね。主な
る神も、わたしは初めであり終わりである、と言われています。
主なる神様や普遍的基盤と一緒にいるから、気付かれているから、
罪の懺悔が出来るんですね。罰せられても救いがあるのですね。聖
書はこのことを言っているのでしょうね。

(余談ですが、完成された者には、最初から誤った方がいいのかも
しれませんね。ただ、普遍的基盤は純粋ですので、上っ面のものだ
と見抜かれますね。そうすると、その場に直面して必死になるしか
ないんでしょうね。その時に間違わないようにしたいものですね。
やはり、主なる神様と普遍的基盤からの法則にゆだねるしかないん
でしょうね。信仰があっても勇気がいりますよ。今の世の中は、神
様も法則をも勘違いして信じれなくなっていますから。正しい浄化
がおこりますように。)