聖書と仏教の意味するところ40

聖書のアモス書第7章
主なる神はこのようにわたしに示された。
見よ、その二番草のはえ出る初めに主は、いなごを造られた、その
二番草は王の刈った後に、はえたものである。そのいなごが地の青
草を食いつくした時、わたしは言った、
... 「主なる神よ、どうぞ、お許しください。ヤコブは小さいものです
、どうして立つことができましょう」。
主はこのことについて思いかえされ、「このことは起きない」と主
は言われた。

主なる神はこのようにわたしに示された。
・・・中略・・・・
「主なる神よ、どうぞ、やめてください。ヤコブは小さいものです
、どうして立つことができましょう」。
主はこのことについて思いかえされ、「このこともまた起こさない
」と主なる神は言われた。

また主はわたしに示された。
・・・中略・・・
「見よ、わたしは測りなわをわが民イスラエルの中に置く。わたし
はもはや彼らを見過ごしにはしない。

コメント
「仏の顔も三度まで」、と言いますが、主なる神さまも三度までは
忍耐をしてくださるのでしょうね。仏教でも、お釈迦様は、三度目
で動かれたことがあります。これは「三度目の正直」と言うのでし
ょうか。
法則の反応がここにも現れていのですね。仏教にしても、聖書の主
なる神様にしても、この法則も示してるのでしょうね。

(余談ですが、ヨガでは、人間の体を、肉体とアトラス体(精神的
な身体)とコーザル体(魂的な身体)の三体に分けて、考えていま
す。仏教の密教も三体に分けて考える時があります。どちらも、三
度目に宇宙自然の法則に反応する身体になるようです。よく出来て
いますね。)