聖書と仏教の意味するところ28

聖書のエレミヤ書第23章
万軍の主はこう言われる、「あなたがたに預言する預言者の言葉を
聞いてはならない。彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ
、主の口から出たのではない、自分の心の黙示を語るのである。彼
らは主の言葉を軽んじるものに向かって絶えず、『あなたは平安を
得る』と言い、また自分の強情な心に従って歩むすべての人に向か
って、『あなたがたに災いは来ない』という」。
・・・中略・・・
...主の怒りは、み心に思い定められたことを成し遂げられるまで退く
ことはない。
末の日にあなたがたはそれを明らかに悟る。

コメント
仏教でも、「無我」ということが、教えられますけど、かなり重要
です。
さらに、お経の教えにしても、主の言葉にしても、自分の都合のい
い様に理解するのは、悪になりますね。
「無我」なっても、少し正しく、残りが間違った教えに自分を預け
ると、それは、盲目と言うのですね。預言者自身が、自分に降りて
きた正当性の感覚に盲目になるいうことが、霊能の初期段階ではあ
りますので、気を付けないといけませんね。その感覚から抜け出せ
ない人もいるかもしれませんね。
深層意識的な自我が作用しているんですね。
とどのつまり、同じ「無我」でも、「無我」の質が違うのですね。
無我において、法則があるかないかが寛容になるのですね。聖書で
は、「み心に思い定められたこと」と書かれていますね。どの宗教
も思いは見ていますね。なので、似たようなことが、起こりますね
。気をつけましょう。
(余談ですが、無我になって、無条件になる時があります。無条件
になって正しいことを知覚する時は強いですね。ただ、本物は、そ
うなった時に、心から反省をする時が多いいように、わたしは思い
ますけどね。世の中は、その精神が、幼い割には複雑ですから。寅
さんみたいに、反省、反省、毎日かもしれませんね。)