聖書と仏教の意味するところ14

聖書のアモス書第2章
主はこう言われる、
「イスラエルの三つのとが、
... 四つのとがのために、
私はこれを罰してゆるさない。
これは彼らが正しい者を金のために売り、
貧しいものをくつ一足のために売るからである。
彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、
苦しむ者の道をまげ、
また父子共に一人の女のところに行って、
わが聖なる名を汚す。
我らはすべての祭壇のかたわらに、
質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、
罰金をもって得た酒を、その神の家で飲む。
・・・中略・・・
私はあなたがたのうちから
預言者を起こし、
あなたがたのうちからナジルびとを起こした。
イスラエルの人々よ、そうではないか」と主は言われる。
「ところがあなたがたはナジルびとに酒を飲ませ、預言者に命じて
「預言するな』と言う。

コメント
仏教にも、報恩感謝、という言葉があるのですが、・・・人々の中
には、神や自然法則の導きで、自分に霊的あるいは物質的になにが
しかの力がついてくると、報恩感謝を忘れて、とがを起こす人たち
がいます。そういう人は、へ理屈の塊で我を張ろうとします。最後
には、自分が疲れていることすらも分からないようです。
大きな国の話でも、目の前の人のことでも、(悪い意味で)人間の
することですから、同じようなことが起こりますね。
(余談ですが、かわいそうでやっかいなのは、口や言葉で報恩感謝
をしながら、中身が支離滅裂になってしまう人たちですね。主なる
神や、宇宙自然の法則を知らないことが原因ですね。「見ても見ず
,聞いても聞かず。」と言うことになるのかもしれませんね。本物
までも汚すことにならないようにしないといけませんね。ただ、そ
の本物が分からない、というのが現状でしょうか。)